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GBの大乱編1


 1 ショートステイに向けて〜2ショートステイ危うし


 翌日の午後、Bちゃんを連れて施設へ向かった。
 表通りから少し奥へ入った静かな立地で、外観は優しいベージュの綺麗な建物である。
 受付で名前を言うと、施設長さんが出てこられてBちゃんともども少し話し、介護士さんと看護師さんには既往症他、現在の状態を説明し、必要書類に記入して、あとはとんとんと翌日からステイと決まった。

Bちゃんは私の用事で一緒にここへ来たものと思っているので、べつにいやがったりしない。
「いいところだねえ。こういうところでノンビリしたい」
 なんて言っていたが、いざ自分が泊まるとなればこうはいかないだろう……とは思う。
 GB宅へ戻って、いつもと同じように夕方まで過ごし、ヘルパーさんが来られるのを待った。ヘルパーさんには翌日からのヘルプは不要と、お知らせしなければならない。
 夕方、外に出て待つこと数分。ヘルパーさんがおいでになり、ステイの件を話すと、
「良かったですね、安心ですね」
 ヘルパーさんもBちゃんの状態を危ないと思ってらしたとか。
「またこの次、何かありましたらお知らせください」
と言ってくださった。私はそのまま帰宅した。


 夜八時過ぎ、いつものように怒声コールでのっけから、
『アンタなんか育てて損したわ!』
 Gちゃんの受け売りなんだか、なんなんだか。しかし電話の相手がムスメだとわかっているだけ昨日よりマシだ。
『そうよ、だいたいね、アンタを引き取るときお父さんは反対したのよ』
「そうだったね」
って、私が孤児だったころのGBの会話なんて、知るよしもないのだが。
『だけどね、アタシはアンタのこと聞いて、なんて可哀想な子なんだろうと思ったの。だからお父さんに無理言って、引き取ってもらった、それなのにアンタは』
 ご近所でも有名なお転婆悪戯で、男の子三人分の苦労をしたと話は続く。私が子供だったときから何十回、何百回となく繰り返されてきた話がそれに続く。Bちゃんがよるとさわると四方へ触れて回っている内容だから、もう私以外の誰もまともには聞いちゃくれない話なんである。
『わかってるの? アタシがお父さんに頼んで頼んで、それで引き取ったんだからね』
「はいはい」
『アンタなんか引き取って、お父さんに申し訳ない』
「はいはい」
『お父さんはね、子供なんかいらない、夫婦ふたりでいいって言ってたんだからね』
「うん、知ってる」
『……なんだ、知ってたの?』
「うん」
『なあんだ……アタシまたてっきりアンタはなんにも知らないと思ってた』
 その『お父さん』すなわちGちゃんは『俺はオメエなんか娘だと思ったこたぁ一度もねえ』と力強く自慢するおひとである。子供のころから聞かされ続けているから、今、認知症のBちゃんに言われてショックを感じるようなことはない。
 このあたりBちゃんの心理はなかなか複雑である。
 恩を盾に、暴言を矛にしてムスメの反応を見る。
 ムスメが反撃してくれば『恩知らず』。
 黙して撤退すれば『アタシが正しかった』。
 いずれにせよ自分が満足を得られるように話を持って行って安心したい。

 それはBちゃんの、満たされることのない果てない飢えの現れなのだ。
 Bちゃん自身も幼少時、母親(私にとって祖母)から離れて暮らし(のっぴきならぬ事情があった)養家で育った(養家の経済事情が良かった)。
「アタシはお母さんに捨てられた」
 Bちゃんの口癖のひとつである。
 「捨てられた」は言い過ぎで、富裕家に預けられたのだし、祖母の仕事が軌道に乗って生活が持ち直したのちには一緒に暮らしている。
「捨てられた」発言にはどうも賛成できない気がする。「捨てられた」本家の私から見ると、そこんとこ、甘いよ。なんである。
 祖母を見送ったのはBちゃん五十歳の頃。そして六十歳になっても、七十歳になっても、そして認知症の進んだ八十歳になっても、Bちゃんの不満は衰えず、
「親らしいことは何一つ、してもらってない」
 たびたび口にしていた。祖母は厳しい人ではあったが、Bちゃんが言うほど冷たい人ではなかったと、多少なり接触のあった私は思う。
 だがBちゃんはそのあたり決して認めようとしない。
 年とともにBちゃんの屈折具合はさらに複雑さを増し、母親にしてもらえなかったことをムスメにしてもらいたいと望むという、妙な方向へ変化した。
 Bちゃん四十歳代半ばの大病のあと、それは顕著になった。以後、ずっとそれが続いている。
 我が儘を言い、無茶を押し通して意のままにふるまう、それでも自分から離れない誰かをBちゃんは求めてやまない。
 Bちゃんはそれを意図してやっているわけではなく、すべて無意識のうちの行動のようである。
 どれくらい相手が耐えられるか。小口に叩いたりつついたりして相手を試す。ちょっとでも抵抗があれば、この人には裏があると考える。
 不信と孤独は表裏一体。自分の要求にどこまで応えてくれるのか、真意を確かめて安心したい。Bちゃんの悲願である。
 そしてそのまま認知症になった。
  かくて、くだんのような話がBちゃんの口から出てくるのである。
 いつもは丁寧に話を聞く私だが、しかしこの夜、Bちゃんの機銃掃射につきあっているのが、なぜだか急にうとましくなった。
 なので、Bちゃんがうだうだと雑言の繰り返しに入ったとき、電話を前触れ無く切ってしまった。疲れもあったし気力が続かなかった。
 ここで電話を切っても、どうせ十五分後に同じ内容でかけてくる。もういいや。そう思ったのである。
 三分たたないうちにBちゃんは電話をよこした。
『なんで話の途中で電話を切ったのよ!』
 で、私はまた電話を切った。さらに留守電モードにして、電話に出ないという手に出た。
 子機を持ったまま家の中を移動して掃除や片付けをする。
 ほどなくして電話をかけてきたBちゃんは、留守電メッセージのあとに『あら……』と言ったきりだった。
 受話器に向かって一人だけで話し、メッセージを残す、ということはできないのである。
 その後、何度か留守電でやり過ごした。『あら』とか『まあ』とかだけでも無事だとわかるので、(徘徊してはいない……)あらかたの様子は推測できた。
 深夜十一時を最後に電話はふっつりと途切れた。徘徊せず寝てくれるといいのだがと思いつつ、しばらく待つ。
 十二時に電話がかかってきて、
『アンタこんな夜中にどこか行ってたの?』
 なんと、Bちゃんは、一時間前に私の家の電話が留守電だったことを覚えていた。
 十五分以上、記憶が保ったのである!
 怒ったり騒いだりすることもなく、短くおやすみの挨拶をして、電話を切った。
 夜間の興奮には冷却時間というものが必要なのかもしれない。
 Bちゃんが電話をかけてくるたびに、もれなく応対していたのは間違いだったのかも……。
 一定時間、会話を絶ってクールダウンすれば、興奮も収まったのでは? 

 だとするとこの一週間、私がBちゃんの怒声コールにひたすらつきあっていたのは、大失敗。だったことになる。
 なんてこったい……。介護ってやつはホントーに難しい。考えさせられた夜だった。


 2 ステイあやうし?


 翌日、Bちゃんを車に乗せて(長期)ショートステイのために実家を出た。
 三日程度の着替えをこぶりな手提げに詰めて車に乗ると、Bちゃんはさすがに「何か変」と思ったらしく、
「糠味噌、かき回さなくちゃ。引き返してくれない?」とか、「家の鍵がないわ」と、落ち着きがない。
 そのまま施設の玄関前に車をつけ、
「ちょっとここでお話があるから」
 Bちゃんを連れて施設内に入った。そのときもBちゃんは、
「ふたりでここに泊まるのかしら」
と思っていたらしく、施設のひとに、
「よろしくね」
 挨拶をしたのだが、個室に入ってからはさらにそわそわと不安そうにする。
 しばらく話したあとで、
「じゃあね」
 私が立ち去ろうとすると、
「あらなあに、アンタどこへ行くの」
 慌てて手提げを持って、Bちゃんも立ち上がった。
「ここでしばらくお泊まりしてね。私も毎日来るからね」
 手短に言って素早く部屋を出る。
「何よ、待ってよ」
 Bちゃんなりに精一杯、早足で歩こうとしたのだろうけれど、追いつくはずもない。
 施設の玄関ドアは通常ロックされていて、入居者の家族や面会者が出入りするときのみ自動開閉となる。
 Bちゃんがどんなに焦っても、入居者単独では出られない仕組みになっていた。
 玄関を出て駐車場に向かい、振り返ってみると、若い看護師さんふたりに両脇を優しく、だがしっかりと支えられて、Bちゃんが渡り廊下から部屋へと、連れ戻されていくのがガラス越しに見えた。
 泣いたかなBちゃん……。車に乗ってからさすがに胸が痛んだ。
 何かしら気がもめて急いでエンジンをかけて逃げるように駐車場から出た。
 Gちゃんが病院にいて、Bちゃんが夜間に徘徊し、私にも家庭がある現在、これが一番安全な策なんだ。これでいいんだと、自分に言い聞かる。
 帰路、走りながらいろいろと考えた。

 老いは誰にでも訪れる。
 老いたとき、自分はどうするか、それは本人がまず考えなければならないことである。
 だが、たとえばGちゃんのように、利にこだわり、他者の思惑は度外視という殻を持ち、やむことのない権力欲、その実態はコンプレックスという構えでいると、GBともに老い支度は進まない。
 その結果Gちゃんの自己利は裏付けがともなわなず、かえって自己不利を引き寄せる結果となる。
 結局、希望に添った支度が調わないうちに老いて知力体力が衰え、気がついたときには身動きがとれなくなって、最後は自分のことも老妻のことも人任せにするしかなく、不本意な環境に身を置くことになる。
 老いることはわかりきっているのに、何故GBは、
「遠からぬ将来、必ずこのことやある」
と考えなかったのか。従前と同じように暮らしていけると踏んだのだろうか。

 Bちゃんを施設に預けた日、静かな夜だった。
 翌朝、施設から電話があり、
『昨夜は眠れなかったご様子です。引き続きよく見守っていきます』
と知らせてくださった。午後になるとまた電話があり、
『家に帰りたいとおっしゃってます』
 数時間後の電話では、
『どうしても帰ると言って、荷物を抱えて玄関前に座っています』
 さらに夕方、
『お食事を召し上がりません』
 Bちゃんの様子が目に浮かぶ。
 この日、私は施設に行かなかった。行けばBちゃんは、
「ムスメが迎えに来た、これで自宅へ帰れる」
と、期待して裏切られる。かえって可哀想な結果になるとわかっていた。
 辛抱、辛抱、と自分に言い聞かせて、家事の合間に本を読む。
 読みかけの本では竹千代のちの家康が、今川館で忍従の人質生活中。遠く離れた三河の家来は、今川の搾取と暴政、極貧にあえぎつつも若殿の帰還を待って耐え続けている。
 二晩目の夜からBちゃんは眠れるようになったらしく、翌朝の電話は、
『昨夜はよくお寝みでした。お食事も召し上がって完食です』
 いい感じに状況が動いた。ただし、
『家に帰りたいと、繰り返しおっしゃっています』
 そこだけは変わらない。
 午後になると、驚いたことにBちゃんは公衆電話から私のところへ電話をよこした。施設のフロントへ行って私の電話番号を聞き、メモに書いてもらったのだという。
 このあたりBちゃんはGちゃんよりずっと行動力がある。
『アンタ、アタシをこんなところに入れて、いったいどういうつもりなの』
 当然、話はこうなる。
 私が何をどう説明してもBちゃんは受け付けないし、怒るべし! 反駁するべし! 責めるべし! という感じで、持てる力のすべてを『施設から出る』『家に帰る』その二点に集中して頑張るからだ。
 説明は無駄だし納得も得られない。話しているうちにだんだん興奮してBちゃんの呂律がアヤシイことになったりして(血圧、大丈夫かい)心配になるほどだった。
 Bちゃんは公衆電話に追加の小銭を入れなかったらしくて、通話が途切れたのを幸い、家の電話の設定を変えて『公衆電話を受け付けない』モードにした。
 するとBちゃんは今度はフロントの中から、携帯電話へかけてきた。
 こっちは、「すわ、施設からだ」と思って電話に出ると、
『やっと出たね。ふん!』
 家に帰りたい一心で知恵が働くようになったんだBちゃん。
 嬉しいような困ったような……。
 それでまた、朝から晩まで一時間おきに、私の元へ電話がかかるようになってしまった。
 施設の受付ではさぞや迷惑されたことだろう。申し訳ないほどの頻度だった。
 全部の電話に出ることはできない。買い物にも行くし家人の送迎もある。それに解決せねばならない問題がいくつかあった。

 まずGBの家の掃除。
 掃除道具を積んで実家へ通い、手始めに冷蔵庫の中身を全部捨てた。そして家の中くまなくしつこく掃除機をかけた。
 じつはこの一月ほど、Bちゃんの世話に行くたびに、足やら腕やらに痒い赤ポチが出て、ノミダニが居着いているのは明確だったのである。
 半年分たまったゴミを捨て、外回りの掃除。
 今回は便利屋さんに頼むほどでもなく、不要品と不燃物の始末をして、ぼーぼーの庭の草むしり程度だ。
 それらを続けながら、次にどうしたって金策をしなければならなかった。

 Bちゃんを預けた施設では、ショートステイは週ごとに前払いと決められていた。
 入所時に支払ったのは一週間分のステイ費八万四千円。この金額を四週ぶん用意しなければならない。設備利用で諸経費ありとして、最低でも三十五万円が必要だった。
 で、この当時、私は休業中できっぱり無収入。
 せんだってのGちゃんの第一回千葉遠征、続くGB介護、第二回千葉遠征にかけて、この数倍の額の持ち出しとなったために、我が方の兵糧の底板が見え始めていたんである。
 私の生活費等の必要経費を差し引いた残高、つまり当月の余剰金総額は寂しく20万円以下。基本、一桁代にはしないと決めているので、自由にできるのは10万円。かなり足りない。
 万が一、退院してきたGちゃんが施設にかかった費用を払ってくれなかった場合、来月は三河松平一党の極貧武士並の予算となる。
 でもそのときゃそのときよ。今できることをやるだけさと、思い定めて金策開始である。
 目標、35万円。第一次金策として、私は手持ちの蔵書を売り飛ばすことにした。
 まず先陣500冊。ブックオフに連絡して引き取りをお願いする。
 本の中には資料として保管してきたけれど、次の出番はおそらくないと思われるものも多数あり、この際だ、在庫一掃大処分と相成った。査定の結果、必要な金額にいたらず。
 第二陣300冊。中には愛蔵のオオカミ本、絶版久しい時代資料もあって、ちょい断腸ではあるが、Bちゃんの安全優先である。査定の結果、まだ足りない。
 三陣はCDとDVD100本。愛聴バンドエイドとも永のお別れとなる。洋画DVDは高額買い取りで、少ない枚数でも金額が跳ね上がった。ここで目標をクリアした。
 後陣として英人の絵とギターを用意していたが、とりあえず今回は手放さずに済む。
 このころ私はしばしば、
「道に36万円くらい落ちてないかなあ……」
 などと、変な独り言を言って、
「その中途半端な額はなに」
と家人に笑われたりしていた。かろうじてネコババの愚挙には至らず一安心である。

 金策が整ったのち、一週間ぶんずつ袋へおさめ、Bちゃんの着替えいくたりかを揃えて、施設へ向かった。Bちゃんの入所から四日ほどたっていた。
 予想はしていたがBちゃんの怒りはすさまじいものがあった。
「アンタね。アタシをこんな目に遭わせて、ひどいんじゃないの」
 から始まって、
「寝れやしないよ、こんなとこで、毎日、一睡もできないよ!」
 施設の介護士さんから、最初の一日だけ寝が浅かった様子があるけれど、その後は毎晩よく眠っていると聞いていた。
「ご飯も不味くて、最低だよ。アタシ、何にも食べられないんだよ。このままじゃ死んじまうよ」
 毎回ほぼ完食と連絡をもらっている。
「そっか。食べてない割に元気だね」
 私の言いぐさが気に障ったのだろう、Bちゃんは手提げ袋を振り回して、殴りにかかってきた。かすりもしない。
 それがさらに怒りをかき立てたらしく、キイイッかヒイーッか、甲高い声でBちゃんは叫んだ。何か言いながら手提げ袋でソファをばんばん叩きまくる。
 しかし私が聞き取ろうとして、Bちゃんをじっと見つめると、ぷいっと顔をそむけてしまう。

 それは「自分でも無茶」とわかっているけれども、「押し通そう」とするときの、Bちゃん独特の態度、だった。
 Gちゃんとの喧嘩のとき、苛立って人に当たり散らすとき、Bちゃんはこれをする。
 私がここにいるとBちゃんは興奮するばかりだ。説得など最初から諦めていたし、こちらから話すことは何もない。
「帰るよ」
 私は立ち上がった。Bちゃんは思いの外、素早く動いて私のバッグを掴み、その勢いでつんのめった。
 わめき騒ぐBちゃんを支えてソファに座らせ、
「じゃあね」
 私が部屋を出ようとすると、
「親ひとりの面倒が見られなくてどうするんだい、この親不孝者!」
 Bちゃんは叫んだ。
「アンタなんか引き取らなけりゃよかったんだよ!」
 またそれかい……。
「ホントなんだからね! 引き取らなきゃ良かった! アンタなんかうちに来る前に死んじまえば良かったんだよ!」
 何度も聞いたよ。でももうしょうがないじゃん、ここまで育っちゃったんだから。
「ええ? どうなのよ、何か言ったらどうなんだい!」
 私の答えは沈黙だけだ。部屋のドアの向こう、Bちゃんからは見えない位置に見守りの介護士さんが黙って立っている。
「こんなとこに親を押し込んで、このひとでなしッ、ええッ、ろくでなしッ! アンタはね、鬼だよ、鬼! 育ててもらった恩も忘れて自分だけいい思いして! 親の世話、投げ出すなんて、そんなニンゲンはろくな死に方しないよッ、よっく覚えておきな!」
「自分の親の世話もしたことない人に言われたくないよ」
 ふと言ってしまった。
 Bちゃんは目を見開いて一瞬、ぽかんとした。
「……何、それ、アタシのこと?」
「そうだよ。Bちゃんは自分の親の面倒を見なかったし、Gちゃんの親の世話も全然しなかったよね」
 こんなこと言ってどうなるんだ、自分。
「ひどいよLuちゃん……」
 Bちゃんの怒りはみるみるしぼんだ。
 最近のことは忘れているが過去の記憶は残っている。私の指摘は正確だったし、Bちゃんはそれを否定する言葉を持っていなかった。
 ここを先途と十八番。Bちゃんは両手で顔を覆い、わーっ! と大泣きのポーズでソファに突っ伏した。とたんに、
「ブブッ!」
 大きな音がして御放屁である。
 私の腹筋はひくひくと震えた。
 笑っちゃいけない。今、とってもシリアス。
 しかし笑わずにいるためにはかなり……。
 
数秒でBちゃんは顔を上げたが、涙なんて一粒も出てはなくて、
「あーあ……」
 脱力の一息。

 別れの挨拶抜きで私は部屋を出た。
 Bちゃんは追いかけては来なかった。


 GBの大乱 ステイ危うし? ここまで

次回 鰤と柚子 に続く

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