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介護坂は下り坂2


 おライカ様~本陣詣で


 その年の秋から冬のはしり、抜糸の痛みをやり過ごすために私は数日間実家へは行かず、自宅で休んでいた。
 歯は痛むし体重は減ってるし食べられないし。無理すれば実家へ行くこともできたかもしれないが、気力はともかくとして体力が足りない。

 するとしびれを切らしたのか、Gちゃんから電話がかかってきた。
『オメエ、カメラ持ってんのか』
 ホントにもうどうでもいい。ようなことを聞いてくるんである。写真は仕事の一部だから持ってるに決まってるでしょ。と言いそうになるのをこらえて、Gちゃんの話を先に聞くことにする。
「持ってるけど、何」
『けっ、どうせちゃちなカメラだろ』
「だから用はなんなんだ」
『俺のいいカメラやるよ、取りに来い』
 ははーん、ライカだなと想像がつく。
 20年ほど前、Gちゃんがおライカ様を買ったとき、そのあまりの高価さに、Bちゃんが激怒して大げんかになった。私が仲裁に駆けつけたので、それが家にあることは知っていた。
 ちなみにGちゃんのおライカ様が撮影に使われたことは一度もない。Gちゃんはフィルム代とDPE代が惜しくて、一度も撮影しなかったからである。
 おライカ様はGちゃんが「俺はライカを持ってるんだぜ」と自慢するためだけに存在し、しかもGちゃんには友達が一人もいないから自慢のタネにすらなり得なかった。
 ゆえに、調湿機能付き保管庫にひたすら鎮座ましまし20年。由緒正しき名門の出であるのに、まことにお気の毒なおライカ様なんである。
「ふーん……それ、ただでくれる?」
『バカ言え、買ったときゃ30万だ』
「いらない」
 予告なしに通話を切る。すぐにもう一度かかってきて、
『途中で切れたぞ。オメエとこの電話おかしいんじゃねえのか』
「おかしいのは電話じゃなくて私」
『どっかおかしいのかオメエ』
「おかしいけど説明してもGちゃんにはわからないからなにも言わない。切るよ」
 それっきりGちゃんからはかかって来なかった。
 しばらくするとBちゃんが泣き泣き電話をかけてきて、
『ねえ、お父さんがね』
「うん。どうした」
『Lちゃんがうちへ来ないのは、アタシのこと嫌いだからだって言うんだよ』
「なんだって……」
『アンタがちっちゃいころ可愛がらなかったからだとか、アタシが病気してアンタに迷惑かけたからだって、そんなこと言うのよ』
「Bちゃん、大好きよ」
『アラ、本当?』
「来週、行くよ」
『待ってるね』
 Gちゃんめ。カメラを私に売りつけ損なってBちゃんに当たり散らしたな。いい加減にせえよ。
 それにまだ歯、痛いのよ。ちょっとほっといてもらいたい。そもそもこの歯がこんなことになったのは、GちゃんがBちゃんを真夏の路上に放置した『倉庫街の悪夢』のときから、Gちゃんの眼科通院、入院退院入院退院で、しかも介護拒否するから、何かっていえばそのたびに私が出張らなくてはならず、歯医者に行くに行かれなくて、つまり、ほとんどGちゃんのせい。だぞ。くっそー……。

 歯と体力と体重が回復するまで、何ができるというものでもないので、横になって本を読んでいた。
 仕事柄さまざまな本を手にする。どれかに偏るということはなくまんべんなく、あれもこれもというのが私の読書法ではあるが、この時期、私は歴史書を中心に読んでいた。
 以前から不思議に思っていたことがあって、それは、
「関ヶ原から大坂の陣まで15年。徳川さんは齢60に近い年から何故15年も待ったのか」
ということだった。
今と違って人生50年の時代である。それなのに徳川さんは59歳ごろから待った。大坂を落としたのは74歳のときである。
 さまざまな書物を読むと、徳川さんは知名度のわりに人気がなく、戦国武将人気ランキングでも、真田家や独眼竜政宗さん謙信さん信玄さん、信長さんの人気には及ばない。『家康嫌い』という言葉さえある。
 いわく、『タヌキ』で『陰謀家』で『野心』のために豊臣恩顧の面々を『謀殺』。
 秀頼の若さに『嫉妬』、滅ぼすために『言いがかり』、淀殿を大砲で『恫喝』、交渉と見せかけて『謀略』、『執念』の徳川独裁体制……みたいなことが書かれてあったりする。
 解釈しだいではそう取れるが、そうでないとも取れるし、本当のところはわからない。
 資料が正確かというと、意外にもねつ造やごまかしがあったりするので、頭から信じてかかると足下をすくわれたり。
 小説の場合はさらに書き手の主観で評価は高下し、これまた実像と近いのか遠いのか、判断は難しい。
 なので、今までは先入観を持たないようにと小説は避けてきた。でもまあ、歯痛の気晴らし読書なので、小説が手軽かと複数の歴史本を同時に読み始めたのである。
 そして家康さんの「15年」にあれこれ想像を巡らした。
 関ヶ原のち、豊臣側は関白の座に復権したいと望み、権威の頂として君臨することを目的とした。
 ひるがえって、徳川側は政務の運営に重きを置き、国政の頂という立場に自らを位置づけた。
 豊臣家が国内情勢を正しく見すえて、一大名として残ると決意表明すれば、徳川側も豊臣を滅亡させる必要はなかった。
 徳川さんは豊臣さんに、
「世を見よ、自らを見よ。事実を見よ、そして判断せよ」
 との思いで15年を与えたのではないだろうか。
 大坂の陣の発端となった問題の鐘名。あの鐘を鋳つぶさせず保存したのは何故なのか。
 どう考えたって徳川方のはなはだしき名折れ「言いがかり」の証拠ともなる(その可能性が高い)鐘である。
 かつて秀吉さんですら自らの暴虐の痕跡を消し去るべく、広大な聚楽第をそっくり潰したほどだ。徳川さんだって鐘ひとつ鋳つぶすくらいのことは造作もなかったはずである。
 それを後世に残した家康さんの真意はどのようなものであったのか……。
 あれこれ本を読みちらかし、とりわけこの15年の謎、が面白く、推理するのが歯痛の床の楽しみになっていた。

 ところで、GBの家からちょっと離れたところに、「豊臣による北條攻めのときの包囲網陣」のひとつ、徳川軍の本陣跡がある。
 その年の暮れ、激走の一年が終わるころ、介護帰りにこの史跡へ行ってみた。
 家康さんの本陣跡の前でしばし佇んでみた。
 400年とちょっと前に、家康さんがここにいたんだなあ……。

 家康さんは苦労人である。
 今川さんちで長い人質生活のあと、織田さんと難しい交際を続け、近江だ甲斐だとあちこち助勢に行ったけれど、女房子供は犠牲になり……。
 豊臣さんとはさらに難しいつきあいで、秀吉さんの引き起こした織田家跡目争いの後始末に巻き込まれて戦競り合いしたり、戦には勝ったものの息子をとられ、嫁殿を押しつけられ、姑殿も押しつけられ、そのあと都へ呼びつけられして、あれこれ気を揉ませられ。
 そして家康さんの娘督姫さんの婿の北條氏直君を、秀吉さんの号令でこうして攻める立場になった。
 北条を攻め終えたら徳川がたは、今まで統治してきた先祖伝来の領地も、今川さんや武田さん亡き後に獲得してきた領地も、全部取り上げられて、一族郎党、家臣の全員が、関東へ追っ払われることになっている。
 その苦難の地、江戸こそが、のち家康さんの運を拓いていくこととなる。
 そして豊臣がたは北条攻めには勝利したものの、このあと、あれよあれよといけないことになって、弟の死、利休切腹、息子の死、朝鮮出兵、母の死、跡継ぎ関白を切腹させ関白の妻子三十九人を惨殺し、大枚はたいて作った聚楽第はぶち壊す、朝鮮再出兵、出兵させたきり秀吉さんの関心は薄れてほったらかしとなり、それが原因で家臣団内の雰囲気が悪化の一途、挙げ句の果てには内紛寸前の分裂、町は大地震に見舞われ、孤独で贅沢な花見、秀吉さんの病気、秀吉さんの死、関ヶ原を経て大坂落城、秀頼の死をもって豊臣滅亡……と坂を転げ落ちていく。


 長久手から北條戦までのもろもろのこと、うち続く苦難のなか、家康さんはこの小田原本陣で何を思っただろうか。
 このとき家康さん49歳。
 関ヶ原は10年後、大坂の陣は25年後である。
 そして豊臣家は滅びたけれど小田原北條の裔として北條家そのものは戦国を生き延び江戸時代から現代まで続いている。
 北条さんは戦国には珍しく民政秀でたる大名ながら、現代では書物によっては『バカ殿』とまで書かれておとしめられたりすることもある。まあ反論はあえてしないです敗戦の将は語れないって言いますからね。そのうち見直される日が来るのを期待しよ。ってところです。それはともかくとして。

 北条包囲網の徳川本陣に佇み、
「ここは戦国の小さな分水嶺……」
 と考えてちょっと楽しかった。
 うん、それだけの話。

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