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豆の記憶

 

 二〇〇九年、正月末。

 Gちゃんは病院で目の手術を受け、術後の回復は順調であった。

 BちゃんはGちゃん抜きの生活を思う様エンジョイしてご機嫌。

 そして私は実家の掃除を続けていた。

 危険度の高い冷蔵庫と食器棚、野菜棚をやっつけたあと、次にオープンタイプのドライストッカーを攻略した。まあ出るわ出るわ、すさまじい量の乾物である。

 砂糖は使用期限はないというが、グラニュー糖が細粒化していたのには驚いた。サラサラとして細かくて、片栗粉かと思ったほどだ。砂糖の粒が吸湿して袋の中でまとまり、のちに乾燥して、ちょっとしたショックで砕け、また吸湿する。何年か何十年か(?)それが繰り返されて、次第に結晶が壊れていって、最後には粒の大きさが肉眼ではわからないレベルにまで、細かくなったのだろうと推察された。

 塩は完全に岩であり、カッチカチやぞ。すりこぎでブッたたいてみたが、びくともしない。料理には向かない物体になっていた。袋の中にあったにもかかわらず、部分的に褐色になって、模様つき大理石みたいな風合いになっていたのは何故なのか。こちらは理由がわからない。

 豆の袋にはゴッキーさん孵化後の、空き家と思われるカプセルが、多数取り残されていた。小豆と大豆と金時豆が多い。もっとも古い豆には、消費期限の記載がなかった。記載が義務づけられる前の商品である。古くても豆は比較的傷まない……とは思うが、なんせゴッキーさんの残飯だ。今ある豆は全部捨てることにした。近所のスーパーで豆三種類を買って、同じ棚に並べておいた。

 廃棄した古豆は四十五リットル袋に、三個ぶんあった。さすがに多すぎて一度には運び出せない。小屋の外、裏側の目につかないところに、一時的に置いて、何日かに分けて運ぼうと、二袋残しておいたのが失敗だった。
 翌日、捨て豆の袋は消え失せていた。小屋をのぞくと、昨日私がまとめた袋とは別の、中が透けて見えない紙袋いくつかに、古い豆が詰め込んであった。袋の上に古雑誌や、他のゴミが被せてある。
 Bちゃんは私が捨てた豆をこっそり回収し、別の袋に入れて、小屋に隠したのである。今度は捨てられてはならじと、Bちゃんは思ったのかもしれない。

『アタシに黙って何をゴソゴソやってたのかしら? あらやだ。あの子ったら豆を捨てたのね。まあ、こんなにたくさん捨てて。もったいない、隠さなくちゃ』

 だったのかなぁと想像した。これを無理してもう一度捨てると、Bちゃんは不安になるだろう。小屋の古豆はそのままにした。

 Bちゃんは典型的な「捨てられないひと」である。二階の物置に、数十年前に使っていた使い古しの真っ黒な雑巾や、穴あきの布巾、タオルなどが、段ボールに何箱もとってあることを私は知っていた。
 Bちゃんが近日中に小屋から豆を出して、煮炊きすることはおそらくないだろうと、私は踏んだ。Bちゃんの場合、豆を炊くには七厘と炭が要る。
 Gちゃんが後生大事に保存している(つもりらしい)練炭は、庭で雨ざらしだ。七厘は欠け割れていて、ものの役には立たない。
 きっと一か月もすればBちゃんは、小屋内の豆の存在をすっかり忘れる。そのころ運び出して捨てればいいのだ。

 そういえば十年ほど前までは、夫婦喧嘩をして負けると、Bちゃんは決まって金時豆を煮たものだった。七厘でコトコト煮あげてから、私に電話をかけてくる。

「ねえ、豆煮たんだけど、取りにおいでよ」

 ああ、けんかしたなと想像がつく。

 三十分かけて豆をもらいに行き、二時間かけてBちゃんの愚痴を聞く。

「そうだねえ、それはGちゃんが悪いよね」

 てなふうにBちゃんをなだめて、そのあとでネスカフェゴールドブレンドの空き瓶に詰められた煮豆をもらい、また三十分かけて帰ってくるのである。

 ネスカフェGブレンドはGちゃんの好物で、金時豆の煮豆は私の好物だ。仕事の締め切り直前の修羅場中だったときなどは、なんかこう、やるせない味の煮豆であった。

 さて片付けは続いていた。

 乾物の棚の中段では利尻昆布が『昆布体制の崩壊』を起こしていた。古い昆布が吸湿して表面が溶け出し、黒い液体となって棚の隙間を伝い、糸を引いた形で垂れ落ちて床に広がり、半凝固して上から下まで一続きの、長くて大きくて薄い昆布になっていた。
 案の定、回収中にゴッキーさんがどっとお出ましになった。昆布領をなわばりとしていたのだろうが、これからはそうは行きませんぜダンナ。ホイホイをあちこちに置いて、対抗することにした。

 炊飯器は普通、米を炊くものだが、Bちゃんの家では蒸気弁の中で、小さいゴッキーさんが炊かれていた。弁蓋の合わせの中へ、幼いゴッキーさんが何かの拍子に入り込んだのだろう。そのまま炊飯されてゴッキーさんは蒸され、あえなく昇天したが、Bちゃんは内蓋や蒸気弁を取り外して洗うということをしないから、ゴッキーさんの存在に気づかない。蒸されて乾いて蒸されてと、それが何度も(何年も?)繰り返され、私に発見されたとき、彼はお米のグルテンできれいに包まれて、化石のようになっていた。

『琥珀のゴッキー』と、彼は名付けられた。


 GちゃんBちゃんは数年前から、突然腹痛を起こして入院したりしていた。

 原因はおそらくこの台所事情にあったのだろう。かといってBちゃんの台所が昔から、こんなヤバイ状態だったわけではない。かつて、私が幼かったころBちゃんは、おそろしくきれい好きだった。なにせ掃除を朝昼晩、するのである。はたきかけ、ほうきがけ、水拭き、家中きれいにして掃除後にはちりひとつ、髪の毛一本落ちてはいなかった。

 むろん当時から冷蔵庫は、いろいろなもので一杯だったが、夫婦が若くて子供が食欲世代のころは、食品もガンガン減るのである。食品の回転も良かったし、保存量の把握もできていたはずだ。
 そのころがBちゃんの人生のうちで、もっとも充実し、働きがいもある、楽しい時期だったのかもしれない。四十歳代半ばで大病をして長い入院をし、退院したあとで、Bちゃんの家事に対する情熱は、急激にさめていったようだった。

 当時のBちゃんはよくヒステリーを起こして、

「再発して死んじゃうかもしれないのに、なんでアタシが掃除なんかしなくちゃいけないの? アンタが掃除すりゃいいじゃないの!」

 てな具合に泣いたり怒ったりが激しく、Gちゃんとしょっちゅう喧嘩していた。
 Gちゃんは暴力上等の人なので、

「稼いでンのは俺だ、誰のおかげでメシが食えると思ってんだ、このバカが!」

 病み上がりのBちゃんをゲンコで殴ってパンダにしてしまったりした。
 当時、Bちゃんは病後の鬱状態だったのだと思う。入院手術、その後の治療で体力は落ち、再発するかもしれないという不安もある。
 短い命ならもう好きなようにやりたい、自分のほうが世話してほしいのに、なんで健康な亭主が椅子に座ってて、病気の自分が掃除をしなくちゃいけないの。そう思っていたのだろう。

 Bちゃんの怒りやら悲しみやらを、Gちゃんはまったく理解していなかった。行き場のないBちゃんの怒りは自分より弱い者へと向けられ、つまりムスメ(私)をはけ口に選ぶようになった。
 ところがこのムスメはBちゃんの気質を、まったくと言っていいほど受け継いではいなかった。
 Bちゃんとは異なるスタイル、つまり時間節約・効率優先で必要最低限の家事だけをこなし、家事は「作業」と割り切っている。Bちゃんの家事は「愛」だから、そこんとこ、おおいに違うのである。

 Gちゃんの暴力に鍛えられて育ったムスメは、Bちゃんのビンタや暴言を軽くかわす。平時と変わらず淡々と(……というふうにBちゃんには見える)(実際にはけっこうアタフタだったのだが)学校へ行き、家事をして、余暇に絵を描き、ギターを弾いていた。

 病後のBちゃんからすれば『動じない』というだけで、憎たらしいムスメであった。

 手をとって一緒に泣いてくれる、同情心に満ちた甘やかな相手をBちゃんは望んでいたのであり、それはついに叶えられなかったのである。

 激すると前後を見失って、口も手も出るBちゃんは、このころ暴力に歯止めがきかなくなり、家庭内の雰囲気は陰惨を極めた。
 争う夫婦の声、罵倒と理不尽な暴力。果てしないBちゃんの繰り言。それらをBGM代わりに皿洗いなどをしながら、十代半ばのムスメであった私は、
「病後の不安定さを治してくれる医者か、暴力をふるう亭主を諫めてくれる専門家が、どこかにいないものか」
みたいなことを考えていた。

 なんということでしょう。それはGB戦線において今でも殆ど変わっていない。

 真冬の大掃除は続いていた。少しずつ台所が片付いていって、Bちゃんもかつてないほど元気になった、二〇〇九年二月上旬。「帰って来ませんように」の祈りむなしく、

『退院するからよ。迎えにこい』

 Gちゃんの帰還が決まった。Bちゃんはいそいそとスーパーへ行き、

「あのひとの好物だから」

と、野菜だの総菜だのを買い込んだ。

 かくして法螺貝が鳴った。

 GBの二回崩れ、介護の大敗北まで残すところ二か月。

 寒風吹きすさぶ冬の日のことであった。


 つむじ曲がりの帰還 に続く



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