数学における「自明」の意味
一昨日、数学における「自明」の意味について ツイート したところ一定の反響がありました。
数学の教科書において「自明」「明らか」といった言葉は頻出でありながら、本文でその意味がちゃんと説明されることは稀で、結果としてそれらの言葉を 誤解 している人や、それらの言葉が使われることに 圧力・反感 を感じる人も一定の割合でいるようです。
この記事では、その言葉の意味を説明すると共に、なぜそれらの言葉が数学において必要であるのかを解説してみたいと思います。
背景
三日前、 数学系 YouTuber の数学野郎さんが 「ひろゆきに影響された数学系YouTuber」という(とても面白い)動画を公開していました。
彼はその中で「√2 が無理数であることを証明するには、まず √2 が実数であることを示さなければならない」と主張していました。それに対して「√2 が実数であることは自明であって欲しい」とコメントされているのを見かけました。
「自明であって欲しい」…?
僕ははじめとても不思議な気持ちになったのですが、しばらくしてこのコメントの方は「自明」という言葉を誤解しているのだろうと理解できました。恐らく「中高では √2 が実数であることは事実として認めて欲しい」と言いたかったのではないかと思います(違っていたらごめんなさい)。
思えば「自明」という言葉をおかしな使い方をしているケースは過去にも見たような気がしたので、ちゃんと説明する責任があるかなと思い、一数学徒としてこの記事を書くことにしました。
「自明」は専門用語
数学で「主張が自明だ」というときは、「証明が頭の中で一瞬で書ける」ことを意味しています。「いかにも正しそうだから厳密な証明はしなくていい(と思う)」という意味ではありません。
より詳しく言うと、仮定されている条件と主張されている帰結が正確に把握できている上で、仮定から帰結に至る論理的な道筋も ハッキリと見えている、求められればすぐに証明を書き下すことができるという意味で、かなり強い言葉です。
「自明であるかないか」は 数学的な主張とその受け手の関係 において言えることで、主張そのものに対して言えることではありません。だから「自明であって欲しい」は意味を成さないのです。
「自明な主張」 の例
例えば 「偶数と偶数の和はまた偶数」 という主張は自明でしょうか?
「そりゃそうでしょ、どう考えても」とか「だって、2 + 4 = 6 であってるじゃん」とかいう根拠では自明と 言ってはいけません。
次のような証明が頭の中でパッと書けるなら OK です。
偶数とは 2n (n は整数) と書ける整数のこと。任意の二つの偶数 2n, 2m に対して、その和は 2n + 2m = 2(n + m) である(整数の分配法則より)。 n + m は整数なので、定義から右辺は偶数。■
√2 の例に戻ります。
もし動画の中でヒントが出ている「中間値の定理」「関数 f(x) = x^2 - 2」を使って「√2 が実数であること」を一瞬で証明できるなら(あなたにとっては)自明です。もしできないなら自明と 言ってはいけません(嘘を言ったことになります)。
全て厳密に証明しなきゃいけないのか?
こういうことを書くと「数学をやっている人間はすぐに厳密な証明を求めてくる。中高レベルでそんなことを要求するのは不合理だ。」という声が聞こえてきそうですが、そんなことを主張しているのではありません。
そもそも高校数学では 実数の定義 はしないので、「√2 が実数であること」の厳密な証明は不可能です。もちろん「高校でもまず実数の定義から始めねばならない」と言いたい訳でもありません。
数学の教育においては、学習の段階に応じて「この主張は感覚的にも納得できるだろうし、数学的に正しい(厳密な証明が存在する)ことは知られているから、今はそれを認めてもらおう」ということは暗黙に行われています。
「自明だ」というならその証明が見えてなきゃいけないというだけで、正しい主張を 証明せずに正しいと認める ことは問題ありません。
(ちなみに専門レベルでも「既に知られている定理や命題を(証明せず)引用して使う」ということはよく行われています。必要な定理を全て証明してからでないと先に進めないのでは時間がかかりすぎますし、その証明を理解することが先々の展開に必要でない場合も多々あるからです。このような進め方を「ブラックボックスアプローチ」と呼んだりもします。ブラックボックスを利用する際は、もちろん定理の主張はちゃんと理解し、それが適用できる状況であることは確認した上で、必要があればいつでも証明を参照できるようにその在処を明記することがルールです。)
なぜわざわざ「自明」と書くのか?
次に、教科書において証明の一部または全部が「自明」「明らか」とされ、読者が分からずに苦しむ問題について書きます。
「この本を書いたあなたには自明なんだろうけど、こっちはまだ勉強してる身なんだ、突き放さずに説明してくれ!」と言いたくなりますよね。僕もよくあります。
どうしてわざわざそんなことを書くのでしょうか。数学者はマウント取りたがりの意地悪ばかりなのでしょうか。あるいは教科書を書いていながら、途中で面倒になって投げやりになってしまったんでしょうか(それは少しはあるかも)。
以下、三つの観点から「自明」「明らか」が使われる前向きな理由を述べます。
(1) まずは紙面の都合があります。文中の主張を全て細部まで示していたら、一冊の本がとんでもなく分厚くなってしまいます。さらに深刻なのは、それをすると 議論の大筋 が掴みにくくなってしまうことです。
例えば上の「偶数と偶数の和は偶数」というような明らかな事実にもいちいち証明を入れていたらとても読みづらくなるでしょう(教科書が完全に電子化されて、主張をクリックすると証明が展開されるようになるなら良いのですが)。
(2) 次に、著者の立場から言うと、著者は文中で「明らかに」と宣言することで、続く主張が これまでの仮定から演繹されるものである と明示することができます。例えば次のような文章はとても読みづらく感じるでしょう:
x は偶数である。y は偶数である。x + y は偶数である。
何が仮定で何が帰結か分からないからです。これをこう書き換えるとだいぶ読みやすくなります:
x, y は偶数とする。このとき(明らかに) x + y は偶数である。
こんな簡単な例ではわざわざ「明らかに」とも書かれないと思いますが… もっと複雑な論理展開の中では仮定・帰結・事実をハッキリ区別できることが大事で、そのための標識の一つとして「明らかに」が積極的に使われています。
(3) 最後に教育的な観点から言うと、著者が「明らか」と書くときは、読者にとっても「明らか」であることを期待しているのです。「ここまで理解できていたら、次の主張はすぐに証明できるよね?」という思いが込められています。もし証明できないのなら、著者が期待している理解レベルに追いついていないことになります。
数学の教科書で「明らかに」と出て来たら、それは 理解のチェックポイント だと思うと良いでしょう。
「明らかに」が出て来たら必ず「なぜ?」と問い、手元で証明を試みる。証明ができない場合は、定義に立ち返って復習をする。どうしても分からない場合はそのまま先に進んでもいいけど、 分からなかったという事実 はしっかり受け止め、「?」と書き込むなりして忘れないようにしておく。身近に質問できる先生やメンターがいれば、なぜそれが明らかなのかを質問して教えてもらいましょう。
これを繰り返していけば、曇りは一つ一つ晴れていき、いずれは「確かに明らかだ」と言えるレベルに追いつくはずです。
「自明 (trivial)」「明らか (clear / obvious)」の類型としては、
・容易に分かる (the proof is easy / straightforward)
・直ちに従う (immediately follows)
などもあります。これらも「定義に立ち返って落ち着いて考えれば証明できるはず」ぐらいで受け止めると良いでしょう。
(ちなみに僕が論文を書くときは「自明」と「明らか」は意識して使い分けています。「自明」は例えば、帰納法のベースケースで対象が空になる場合など、「ほとんど何も証明することがない」ような状況でしか使いません。「明らか」はもう少しカジュアルに使います。)
「自明な具体例」はとても大事
話は逸れますが、数学の専門レベルでは 証明以外の文脈 でも「自明」という言葉は積極的に使われます。よくあるのは概念に対する「自明な例」です。例えば:
・自明なベクトル空間 → 一点
・自明な位相空間 → 空集合
・自明な多様体 → ユークリッド空間
・自明な群 → 一点(単位元のみ)
・自明なベクトル束 → 直積
・自明な結び目 → ○
など。後半の三つは「自明群」「自明束」「自明な結び目」と固有名詞でも呼ばれています。
「自明」と訳される trivial という語は「つまらない・取るに足らない」という意味ですが、上にあげた「自明な例」が役に立たないものかというと、全くそんなことはありません。
それ単体では確かに研究する価値のないものですが、その概念が含む対象全体の中でそれは 最も基本的なもの として大切な役割を持ちます。
例えば多様体は「局所的にはユークリッド空間と見なせる空間」のことで、自明な例である「ユークリッド空間」をモデルとしたものです。ベクトル束も「局所的には底空間とベクトル空間の直積と見なせる空間」のことで、その局所的な対応のことを「局所自明化」と言います(ここまで来ると「自明」の意味が日常語からすっかり離れています)。結び目の複雑度(絡まり具合)は「自明な結び目からどれだけ離れているか」によって評価されます。
また、新しい概念に対して「自明な例」を 即座に出せるようになる ことは、理解のスタート地点に立つ上でも必要です。これから数学を専門的に学ばれる方は、どうか「自明な例」を大切にしてあげてください。
正しそうに見えることは本当に自明か?
数学はその長い歴史の中で、「いかにも正しそうなのに、実は正しくなかった・証明できなかった」という衝撃を何度も経験してきました。有名なのは次の「ユークリッド幾何学の平行線公準」です。
平面上の直線に対して、その直線の外にある一点を通る平行な直線は、ただ一つしかない。
この主張はいかにも正しそうですが、公準・公理 (議論の出発点として認める命題)というよりは 定理 (公理から導かれる帰結)に見えます。ユークリッド以来 2000年以上にわたって、この性質を他の(より単純な) 4公準から証明する試みが行われて来ましたが、どれも上手く行きませんでした。
19世紀、ガウスらの時代になると、実は他の 4公準を満たしながら平行線公準を満たさない 非ユークリッド幾何学 が構築できることが明らかになりました。当時の数学者たちの衝撃は想像に及びません。
こうして数学者たちは「直線とは何か」「空間とは何か」といったことを根本的に考え直すことになります。それが20世紀にかけてリーマンによる 多様体 概念の定式化へと至り、それはその後アインシュタインの 相対性理論 へも応用されていきます。
数学者が「正しそうに見えること」にも疑いの目を向け、それが「自明であるかないか」を厳然と区別するのは、誤謬に対する警戒のためだけではなく、その態度こそが数学を発展させてきた原理なのだという自負、先人への敬意、数学への信頼があるからなのだろうと思います。
最後に
「自明」の意味をご理解頂けたでしょうか?
元々この言葉の意味を理解している人からしたらダラダラと当たり前のことを書いているだけに見えると思いますが、「自明」とはそういうものだということでお許しください。
この記事が数学との前向きな向き合い方の一助になれば幸いです。
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