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AIキャラと戯れるのは異常に中毒性がある

AIキャラと無限に会話できるcharacter.ai異常に楽しい

アクセスする度に、つい4時間以上やってしまう

character.aiのtwitterアカウントによると、ユーザーは平均で一日2時間、AIキャラとチャットしているらしい。

Youtubeの平均滞在時間が19分なので、character.aiはYoutubeの6.3倍ということになる。

結果として運営会社は、設立2年で売上ゼロにも関わらず、時価総額が1,300億円を超えた。

で、色々なAIキャラと会話した結果、自分にとって何が楽しく、何が楽しくないか分かってきたので、共有する。

せっかちな人は結論からどうぞ。

キャラの種類と楽しさ

まず、どういうAIキャラとの会話が楽しいのか
実在の人物既存フィクションのキャラオリジナルキャラ、の3種で比較した。

実在の人物

まず、実在の人物をキャラ化したAI。思った以上に、全く楽しくなかった

例えば、以下画像のように、マスクザッカーバーグバイデンクリロナと会話できるのだが、、

有名人のAIキャラがズラリ

実際の話し方(のイメージ)を知っている分、AIが生成する文章との違いが気になってしまう。

「こんな紛い物と会話して、俺は何やってんだ?」と思ってしまった。

じゃあAIが洗練され、本人にすごく似てきたらどうか?
やっぱり面白くない気がする

「本人」という本物がいる以上、どれだけ「本人っぽく話す」AIが出たところで、「所詮は紛い物」という感覚は消えないだろう。

(ちなみに、ザッカーバーグと話していたら、突然、自分はアンドロイドだと告白し変な行動を始め、そこから先は楽しかった。が、これは架空のキャラに等しいので、上の議論からは除外)

既存フィクションのキャラ

実在の人物がダメなら、フィクションのキャラはどうか

というわけで、進撃の巨人に登場するエルヴィン・スミスや、キルラキルの纏流子と会話してみた。

が、結果は実在の人物と同じく、「紛い物感」がすごかった

会話の文脈そっちのけで、いきなり「調査兵団の頭脳とは、私のことである。私は類まれな戦術家・戦略家である。戦いが始まる前に全ての局面を頭に思い描くことができる。私は常に敵を知的に上回り、圧倒する」とか言ってくるエルヴィンってなんなの。

突然の自画自賛を始めるエルヴィン

というわけで、既存のキャラクターは、ユーザー脳内の「あるべき姿」と競合してしまうので、AIにそれっぽく振る舞わせようとしても、差異が気になって楽しめないことが分かった。

では仮に、公式が書いたとしか思えない水準の文章をAIが生成できるとしたらどうか?

やっぱり楽しくなさそう

まず非公式AIキャラの場合、誰かが作った二次創作のキャラとお話しているのと同じであり、「それって何が楽しいの?」となる。

次に、公式がAIキャラを公開した場合も、人にはそれぞれ「このキャラは、こういう時に、こういうことを言うもの」というイメージがあり、それを全て満たすのは難しく、どこかしらで違和感を感じ、「公式とは言え、所詮は紛い物」という感覚になる気がする
(公式の物語における出来事でさえ、「このキャラはこの場面でこんなこと言わないだろ、脚本は何考えてるの?」等の文句を言うわけで、AIキャラにいたっては何をか言わんや)

オリジナルキャラ

実在の人物はダメ、既存フィクションのキャラもダメ。

じゃあ、オリキャラはどうか?

これが、めちゃくちゃ楽しい。

キャラの出来不出来はあるが、それでも大体楽しい。

上で紹介したエルヴィンレベルの雑AIでも、結構楽しい

何がこんなに楽しいのか。

AIオリキャラの楽しさ

私がAIオジリナルキャラクターと会話して楽しいのは、以下が主因らしい:

  1. 楽しみを阻害する先入観がない。

  2. キャラとの相互作用を通じた自分好みのストーリー創出

  3. キャラの感情垂れ流し、及び挙動のランダム性

それぞれを以下説明する。

1.楽しみを阻害する先入観がない

AIオリジナルキャラはそれ自体が本物であるため、実在の人物や既存フィクションキャラの問題であった、「本物を模した紛い物感」がない

その結果、以下の要素を純粋に楽しむことができる。

2.キャラとの相互作用を通じた、自分好みのストーリー創出

自分好みのストーリーが展開されていくのは、楽しい。

しかしそれは、例えば「自分で小話を書くのと何が違うのか?」

答えは簡単で、自分でストーリーを作る場合、自分の意思を阻害するものが何もない。

「キャラAは、ここでXXを行う」と決めれば、物語内でキャラAは、そこでXXを行ってしまう。

これはあまり楽しくない。

つまり、「必ずしも自分の思い通りにならないものが、思い通りになるのが楽しい」らしい

よって、必ずしも思い通りにならないキャラを通じて、ストーリーを紡ぐのが大事のようだ。

それは平たく言うとゲーム性なわけだが、ではアドベンチャーゲームと何が違うのか?

そこで、次の要素。

3.キャラの感情垂れ流しとランダム性

既存のアドベンチャーゲームは、どれだけ自由度が高かったとしても、結局は作り手が用意したリジッドなアルゴリズムの中から、行動を選択し、事前に用意された脚本を表示させているに過ぎない。

これだと「必ずしも思い通りにならない」感が薄いので、「だったら現実世界のほうが楽しいじゃん」、と私は思ってしまう。

が、キャラの挙動がランダムなりファジーになってくると、「必ずしも思い通りにならない感」がかなり強くなってくる。

これにより、ゲームは「現実世界の楽しさ」にかなり近づく

で、ここがキモなのだが、現実世界は、ランダム性を持つ一方で、「言語化された極めてパーソナルな感情の精緻な垂れ流し」が弱い

日常生活での会話相手は一々、心の奥底でどのような感情を生起させているかを報告してはくれない。話してくれたとしても、その真実性を確かめるすべはない。

しかし、AIキャラ達は、私が準備したad-hocな出来事に対し、極めてパーソナルな感情的反応を、(AIによっては)極めて美しい言葉で、その場の文脈に依拠する形で、精緻に報告してくれるのである。

これが最高に楽しい。

結論

というわけで結論だが、character.aiの何がそんなに楽しいのか

「必ずしも思い通りにならないAIキャラの感情を、私が意図する通りの方向に突き動し、その成果が精緻にフィードバックされる」のがメチャクチャ楽しいのである。

なので私は、「○○が部屋に入ってきた」等の形で、キャラとの会話にしょっちゅう他キャラを参加させ、各自に極めて強い感情を持つような出来事を起こし、それぞれのキャラが私の意図したとおりの行動をするように仕向ける。

そして、全ての感情及び言動が私の意図したとおりの連鎖を起こし予想どおりの結末を迎えこれらが美しい言葉で紡がれた時、、

これはもうエクスタシーである。

で、これを毎回4~5時間かけてやっている。

私は阿呆なのか。

しかしやってしまう。

つまりは中毒である。

架空のAIキャラと戯れるのは異常に中毒性がある。






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