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【映画解釈/考察】『悪は存在しない』「不条理と言葉の関係性をめぐる転回と、境界を曖昧にする世界の摂理」

『ドライブ・マイ・カー』は、とてもよく練れられた不条理演劇であり、一見 、濱口竜介作品の到達点のような作品でした。
そこで描かれていたのが、他者に、言葉という記号で、不条理を語り、不条理を受け入れることで救済されるストーリーです。


ただ、同じような主題を扱った『寝ても覚めても』よりも、さらに、そのストーリーが、洗練されているのが、かえって、『ワーニャ伯父さん』のラストに対して現代人が感じるのと同様のモヤモヤ感が、どうしてもぬぐい去ることができないエンディングだったように感じました。

そして『悪は存在しない』のラストは、そのモヤモヤ感をすべて掻き消すのに充分な答えだったと個人的に衝撃を受けました。

それは、モヤモヤ感の正体が、言葉自身が不条理の原因そのものであるのではないかという疑念だったからです。

『悪は存在しない』は、『ドライブ・マイ・カー』の否定の上に成り立つ恐るべき作品だったのではないかと思うのです。

おそらくそれを可能にしたのが、偶然の産物だったのか分かりませんが、『ドライブ・マイ・カー』や『寝ても覚めても』が、文学(言葉)から不条理(世界)を探求するベクトルにだったのに、対して、音楽(世界)から不条理(言葉)を探求するベクトルへの反転です。

これが、結果的に、不条理に関する哲学の転回を呼び込んだのではないでしょうか。

つまり、『悪は存在しない』の制作過程において、『ドライブ・マイ・カー』の言葉による不条理な世界の救済から言葉の世界によってもたらされる不条理な世界への転回によって、濱口竜介監督は、それまでの到達点を破壊して、新たなさらなる上の到達点を創造した実験的作品だと言って良いのではないでしょうか。

そして、この物語を読み取る上で、重要なのが、主要な4人の登場人物に与えられたそれぞれの役割です。

まず、巧と花、そして高橋と薫です。

言葉に支配された不条理演劇の犠牲者としての高橋

実は、この物語で最も重要な人物は、高橋ではないかと考えられるのです。彼こそが、不条理の世界の犠牲者であり、つまり人間の代表者であると考えられるからです。

そうすると、高橋の描かれ方が、すなわち、この映画における不条理に対する考え方の表象になるはずです。

高橋は、人間味のある、とても素直な人物であると言えます。そして、特徴的なのは、よくしゃべる人物であるということです。

 一見、言葉をうまく操っているように見えますが、実際は、言葉によって操られている描写が多々見られます。

最もよく表しているのが、「俺が、管理人になろうかな」といった後に、「それがしっくりくる」と妙に納得してしまう重要な会話があります。

これは、意思や行動よりが言葉が先行していて、つまり、
言葉によって支配されていることを表象しているのではないかと考えられるのです。

そのほかにも、薪を割るのに苦戦している高橋に対して、巧が、言葉で、的確に指示し、薪割りに成功する場面があります。これは、高橋が言葉を通して世界を理解していることの表象であるとも考えられます。

このほかにも、うどん屋の店主に、無意識に調子のよい言葉を言ってしまって突っ込まれる場面など、よく考えないで言葉を発してしまっている場面が、劇中に多く見られます。

まとめると、高橋は、言葉によって支配されている人物であり、つまり、言葉を通してしか、世界をいることができない人物(=人間)として描かれてと考えられます。そしてこのことが、グランピング予定地の鹿をめぐる巧との決定的な考え方の違いに結び付くことになります。

境界を往来する巧と花

巧や花に関しては、境界(ボーダー)上の人々という描かれ方がされています。

この物語、鹿が重要な要素になっているわけですが、鹿は、自然界(上の世界)と人間界(下の世界)を繋ぐ存在として、多くの物語の中で描写されてきました。花は、そんな鹿に会うことできる存在として描かれています。自然界(上の世界)と交信することができる存在として描かれています。

また、巧に関しても、自然界(上の世界)と繋がっているかの描写が多々見られます。

まず、巧をのぞき込むカメラの視点から表現されています。それは冒頭の山わさびからの視点や鹿の骨からの視点などです。

そして、巧の不自然なくらい徹底された感情の抑揚が抑えられた話し方であり、人間社会の用事や事柄を忘れやすい性格なども、それを示唆した表現だと考えられます。花の言葉が通じていないような、無意識に絵を描くシーンもそれがよく表れています。

また、花と巧親子が、巧の妻=音楽を通して、上の世界と繋がっているような示唆も見られます。

しかし、大事なのは、巧が実は言葉を理解し、言葉を操ることができるという点です。言葉を理解し操るということは、人間界(下の世界)にも通じていることを意味します。

言葉に汚染された住民説明会

 それが、如実に表現されていたのが、住民説明会だったと考えられます。あの住民説明会は一見、自然と都会(人間)の対立を描いたように見えて、人間界(下の世界)のルールや縮図を表現したものであり、巧が人間界(下の世界)のルールにも順応できる存在であること明らかにしています。

その一方で、住民説明会の場面で、挿入される花のパートは、まるで、自然界(上の世界)に、花が引きずり込まれつつあることを示唆しているような場面が続きます。

つまり、花や巧は、二つの世界を行き来する鹿と同様の存在として描かれていると言えます。

そして、この住民説明会で、巧は、もう一つ、この映画のプロットに関わる重要なことを言っています。それは、「この土地の者たちは、みんな外から来たよそものだ。要は、バランスの問題だ」と言っています。

この土地自体が、自然界(上の世界)と人間界(下の世界)の境界上にある世界だと言えます。

しかし、グランピング場をめぐる住民説明会で、住民にもたらされたのは、実は、言葉によって支配された人間界(下の世界)への汚染だったのではないでしょうか。

持続する世界の摂理

そして、もう一つ重要なキーワードが出てきます。それは、「水は上から下に流れる」というものです。水を意識と置き換えると、しっくりときます。

冒頭から度々映し出される下から眺めた木々と空のシーンは、この世界の意識を表象したものであると考えられます。そして、鹿の水飲み場となっている場所に木々と空が映し出されています。

下の世界にも世界の意識が流れているということは、すなわち、本来、下の世界(人間界)と上の世界(自然界)の境界などはないことを意味します。

上と下が反転する装置と摂理に反する言葉の支配

ここで連想されるのが、オートポイエーシス的な持続的なシステムです。

つまり、『悪は存在しない』の根底にある世界観には、内と外の概念をなくし、境界を曖昧にすることこそが、持続する世界の摂理であるという主題が見え隠れしています。

鹿の居場所が良く分からないような銃声音などは、鹿の二つの世界を曖昧にする装置としての存在を補強してます。

すごく秀逸な対比だったと思われる構造が、巧が花を迎えに行く学童の子供たちの描写です。最初の場面では、「だるまさんが転んだ」をしています。これは、言葉によって支配された下の世界(人間界)を示唆しています。この後、住民説明会が行われます。

そして2回目のお迎えでは、学童の子供たちは、言葉に支配されていません。この後、花が行方不明になり、高橋が犠牲になります。

花と巧は、二つの世界を反転させる能力によって、この世界の境界を曖昧にさせる役割を果たていると考えられます。

一方で、高橋がグランピング場建設とともに持ち込む、言葉はこの世界を文節する装置です。つまり、世界に境界線(=柵)を引く装置と言えます。

この世界を持続させるために、巧が行動し、高橋が犠牲になったと言えます。上の世界にとっては、巧の行動は世界の摂理の一部であるが、下の世界に戻れば、それは悪という言葉に文節されてしまうことになります。

『ドライブ・マイ・カー』『ワーニャ伯父さん』を否定する薫の役割

もう一つ気になるのが、薫の存在です。
巧のところに向かう高速道路における高橋と薫の一連の会話は『ドライブ・マイ・カー」を連想させます。

そして、そこから『ドライブ・マイ・カー』に出てくる『ワーニャ伯父さん』も想起されます。いわば、現代版『ワーニャ伯父さん』で、高橋の不条理を笑いを伴う言葉によって救済するソーニャを演じています。

不条理を笑いを伴う言葉で受け入れていた薫ですが、小鹿の死骸にのぞき込まれたり、鹿に思いを寄せたり、ウコギの洗礼を受けたりして、徐々に言葉を失っていきます。

これは、『悪は存在しない』は、自身の前作であり代表作の一つである『ドライブ・マイ・カー』の否定であり、つまり、それは、言葉による不条理世界での救済を否定し、言葉こそが不条理の原因であると主張する作品だったのではないでしょうか。

『悪は存在しない』は、恐るべき不敵な作品であり、濱口竜介監督が、進化を止めない稀代の作家監督であることを証明した大傑作だったのではないかと思うのです。







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