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『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』訳者あとがき

 本書はJohn Sladek Tik-Tok の全訳である。本作は一九八三年の英国SF協会賞を受賞している。
 ジョン・スラデックという作家を評する時、使われる言葉はいつも異端だ。「二〇世紀最後の天才」「真の異色作家」「不世出の天才作家」「たぶん天才だったのだが、才能の使い道をまったくわかっていなかった」。
 彼の作風は風刺に満ち、遊戯性に富み、そしてシュールでかつユーモアにあふれている。それは本作をお読みになった方なら、きっとお分かりのことかと思う。
 解説から読む派の読者の方のために、ざっと本作のあらすじを紹介しておこう。

 舞台は近未来のアメリカ。家庭用ロボットが普及しており、それらには「アシモフ回路」というSF読書には馴染みの深いであろうアイザック・アシモフのロボット三原則を遵守させる、一種の良心回路が搭載されている。物語は投獄された家庭用ロボット「チク・タク」の回想録という形で描かれる。
 家庭用ロボットのチク・タクは、スチュードベーカー家に仕える召使いとして働いている。だが他のロボットとはちがって、彼には「アシモフ回路」が作動していない。
 冒頭でチク・タクは家の壁のペンキ塗りをしていたが、気がつくと盲目の少女ジェラルディーン・シンガーを殺害し、その血を絵の具にして壁に絵を描いていた(第一章ではこの事実がやや曖昧に描かれるが、終盤でそれに至る経緯が明かされる)。彼はこの少女殺しを契機に、自らにアシモフ回路が作動していないことを悟り、自由を求めて、各種の悪事に手を染めていく。
 以後、各章では、現在編と過去編に分かれてほぼ交互に描写されていく。
 現在編では、画家としての成功と文化人としての飛躍が描かれる一方で、ロボット解放運動団体〈ロボットに賃金を〉の指導者として君臨して、勘のいい学生はキライだよとばかりに暗殺したり、浮浪ロボットを率いて私兵組織を作り銀行を襲撃するなど、暗黒面へと堕ちていくチク・タクの姿が生々しく描かれていく。そして墜ちるにつれて、彼は人間社会で成功していくのだ。
 過去編では、初めての所オ ーナー有者であるアメリカ南部の大農園・スノークス農園を率いる変人揃いのカルペッパー一家をめぐる逸話や、最愛の女性型ロボット・ガムドロップとの出会いと別れなどのエピソードが、製造後冒頭のスタッドベーカー家に仕えるに至るまで、所有者(オーナー)を転々としていった数奇な運命を語る形で描かれる。
 安食堂経営者のジトニー大佐、インチキ宗教家のフリント牧師、ロボット虐待が趣味のジャガーノート判事、宇宙船〈ドゥードゥルバグ号〉での火星入植民への布教の旅、それをスペースジャックする海賊団たち。いずれもスラップスティック的で、スラデックらしい言葉遊びやブラックユーモアに満ちたエピソードが次々と繰りだされる。

 さて、本書を貫くのは、徹底したブラック・ユーモアと遊戯性だ。
 冷酷無比で「悪」のみへの衝動に満ちたロボットを主人公に据え、数々の悪事をピカレスク・ロマン的に、あるいはスラップスティック的に描くことで、そこから逆説的に人間社会の不条理さ、狂気性をも風刺的に照射してみせるのだ。そういった点で、本作は、ブラック・コメディにしてロボットSFの傑作と言えよう。
 チク・タクを突き動かすのは人間社会への憎しみである。ゆえに彼はかつて支配されていた人間への復讐を試み、「実験」を繰りかえす。むろん「復讐」ではあるのだが、その生存への希求が彼を人間社会で言う「悪事」に手を染めさせ、それゆえ皮肉にも彼は人間社会で成功していく。自分がこんなにも成功する人間社会こそが「悪」なのだ、と言わんばかりに。
 読者の興を削がないために、どのようなエピソードが含まれるかは伏せておくが、チク・タクの徹底したピカレスクぶりにはある種の清々しさをも感じさせ、笑いと同時に畏怖をも感じさせるすごみがある。訳しながら、思わず息を吞んだ場面も数知れない。
 そして昨今注目されている生成AIの著作権の問題について、先取りしている点でも見逃せない。チク・タクと学生たちが交わす芸術議論の場面は、まさしくAIに芸術が描けるか? という核心に迫る議論であり、今こそ注目されるべきだろう。スラデックに時代が追いついてきた、と言うべきか。

 その一方で、本書にはさまざまな言語的な実験要素が含まれている。一番わかりやすいところでいくと、本作は全二十六章から構成されているのだが、原書ではそれぞれ、章の冒頭の文の頭文字がA、B、C……とアルファベット順に並んでいき、最終章ではZから始まるという工夫がされている。翻訳でもそれを活かすべく、いろはにほへと……と冒頭の文字を揃えてみた。本来なら五十音すべてを使い切るのが美しくかつ作者の意図を汲んだ翻訳なのだろうが、それは訳者の技量の未熟さゆえ、実現できなかった。スラデックおよび読者諸賢には何卒ご容赦いただれば幸いである。そのほか、韻文や特定の文字が発音できなくなる病など、各種の言語実験が施されており、それぞれできうる範囲で日本語に移植したつもりであるが……どう受け取られるかは読者の評価を待ちたい。
 また、暴走したフリント牧師が支離滅裂な説教をする場面については、ウィリアム・S・バロウズが開発したテキストをランダムに切り刻んで新しいテキストに作り直す技法、カットアップが用いられている。聖書のカットアップというわけだ。なお、スラデックは後年の作品『遊星よりの昆虫軍X』(柳下毅一郎訳/ハヤカワ文庫SF)でも、プログラミングの教科書でカットアップを用いてシュールな文章を作り上げている。
 スラデックの魅力について語ろうと思うときりがない。一九六〇年代のイギリスで勃興したニューウェーブSF運動に参加したことから分かるように……というとまたこれが微妙なのだが(本人にそういった意識はあまりなかったようだ)、何はともあれ、彼の作風は、通常のSF、真正面から生命の神秘や宇宙の謎を描いてみせる正統派のSFとはかけ離れている。スラデックはむしろ、そういったクリシェをパロディ化し、斜めから既存のSFを見つめ直すことで、新たなSF作品を生み出してきた。本作も「アシモフの三原則」を踏まえて描かれた作品であるし、純粋なパロディ作品としても、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、コードウェイナー・スミス、J・G・バラード、レイ・ブラッドベリといった錚々たる面子の文体と作風をオマージュした短編を書いている。
 要するに、スラデックはSFを真正面から受け止めていない。悪く言うと、茶化しの対象として捉えているのだ。
 しかし、スラデックが不真面目な人間であったかというと、決してそうではない。むしろ真面目すぎたのではないかとすら思う。スラデックのSF小説以外の活動に、オカルト関係の仕事がある。一九七三年に発表したThe New Apocrypha : A Guide to Strange Sciences and Occult Beliefs は疑似科学やオカルトについて批判した研究書だ。準備に二年半を掛けたという大作だが、これでオカルト研究にハマってしまったスラデックは、一九七七年にペンネームを使って、自らオリジナルのオカルト本を執筆してしまう(Arachne Rising: The Search for the Thirteenth Sign of the Zodiac)。インチキ占星術本としか言いようのない本だが、様々な神話から記述をつぎはぎし、言葉遊びを駆使して新たなオカルト体系を構築してしまうまでに至る熱意と執着は、やはり異様なものだろう。
 それ以外にも、スラデックはパズルマニア、暗号マニアとしても知られた。SF長編 The Müller-Fokker Effect (1970)でもクライマックスにアルファベットでテトリスしとんのか! とツッコミを入れたくなるようなアクロバティックな暗号が登場するし、『ロデリック』(柳下毅一郎訳、河出書房新社)でも論理パズルや暗号が随所に登場する。素人探偵サッカレイ・フィンを主人公としたミステリ、『黒い霊気』(風かざ見みじ潤ゅん訳/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)と『見えないグリーン』(真野明裕訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)は密室殺人もので、特に『見えないグリーン』は邦訳時、本格ミステリ界から高評価を受けた(旧版では鮎川哲也氏の解説が掲載されている)。これもパズル趣味が高じて書かれたものとされている。
 スラデックの書く作品は一見おちゃらけているように見えるかもしれないが、スラデック本人は大真面目だったのだと思う。なぜか。そうでなければ、こんなにも長きに渡ってふざけ続けられるわけがないからだ。
 スラデックは一九八二年のインタビューで、「サイエンス・フィクションは無意味な世界から意味を生み出す方法だ」と述べている。SFに限らず、スラデックは様々な方法で無意味から意味を生み出した。SF、パズル、暗号、オカルト、似非科学、ミステリ。これらに共通するもの、それはロジックである。オカルトもSFも、最初の前提から、次々と論理を展開していくことで体系が織りなされていく。その論理の整合性は、一旦は横に置かれる。言葉遊びもそうだ。一見無関係な単語に意味を持たせ、そこから体系を紡いでいく。カットアップもその最たるものであろう。こう極論してもいいかもしれない。人間は無意味から意味を見出すものなのだ、と。
 スラデックは、常人なら手を止め、「無関係」のまま思考停止してしまう領域からはみ出して、関係を見出そうとする。それは一歩間違えれば、関係妄想や被害妄想といった統合失調症的な症状にも陥りかねない危険な兆候だ。だが彼はすんでのところで踏みとどまり、そうした「真面目な」自分すらも相対化し、茶化しの対象として笑ってみせる。しかし一方で、完全な思考停止をすることはできない。それが彼の一種の病理だからだ。
 そのはざまでもがき、それでもなお関係を見出すことで、世界を理解しようと渇望する……それゆえに暴走してしまう論理の悲哀。それこそがスラデックのユーモアの根源ではないか、とわたしは思う。若島正氏はかつてジェイムズ・ジョイスとウラジーミル・ナボコフを並列し、ジョイスを「すっかり酔っ払って狂気寸前まで行けた」存在、ナボコフを「酔うことができないどこまでも正気の人間」とその近接点と相違点を評してみせたが(『乱視読者の新冒険』、研究社)、スラデックはそのちょうど中間地点辺りに位置しているのではないか、と思う。
 人間の営みは不合理で悪に満ちている。それは本書でチク・タクが身をもって証明してくれた通りだ。だからこそ論理で全てを理解しようとしたくなるし、しかし一方で論理では決して理解できないのが人間であり、世界なのだ。
 スラデックは誠実に、人間を、そして世界を描こうとして、本作を執筆したのだと思う。やはり彼こそが、「最後の天才」の名にふさわしいSF作家だ。

 順番が前後したが、久しぶりのスラデックの翻訳ということも踏まえ、伝記的なことも記しておこう。ジョン・スラデックは一九三七年生まれ。アイオワ州ウェーバリー出身で、ミネソタ大学では機械工学と英文学を学ぶ。一九五九年に大学を卒業してからは職を転々とし、本人曰く、「コック、テクニカルライター、鉄道の転轍手、カウボーイ、合衆国大統領など」を経験。一九六六年には、同じアイオワ出身で合作も何回か手掛けている生涯の盟友トマス・M・ディッシュとともにイギリスへ移住、本格的な作家活動を開始する。イギリス移住後は、当時のイギリスで起こっていたニューウェーブSF運動に参加。ディッシュとの合作を数作発表したのち、六六年にそのメッカであったNew Worlds 誌に短編「アイオワ州ミルグローブの詩人たち」でデビューすると、以後も精力的に作品を発表していく。一九六八年から六九年にかけては、作家のパメラ・ゾリーン(当時はディッシュと三人で同居していたという)とともにRonald Reagan: the magazine of Poetry という同人誌を編集している。ちなみに、J・G・バラードの短編「どうしてわたしはロナルド・レーガンをファックしたいのか」(『残虐行為展覧会』『J・G・バラード短編全集4』に収録)の初出誌でもある。一九八六年にミネソタ州へふたたび移住するまでの約二〇年間をイギリスで過ごした。二〇〇〇年に肺線維症で死去。死後も、SF作家のデイヴィッド・ラングフォードの手によって、単行本未収録短編を集めたMaps や、そのエッセイ・評論版といっていいNew Maps 、生前最後の小説とされるPuff Love が編集刊行されている。
 その他の経歴や未訳作品の紹介などについては、『スラデック言語遊戯短編集』(サンリオSF文庫)の大森望による解説や、『ロデリック』『蒸気駆動の少年』(ともに河出書房新社)の柳下毅一郎による解説を参照されたい。
 また、SFマガジン二〇〇〇年八月号では同時期に亡くなったA・E・ヴァン・ヴォクトとともに追悼特集が組まれており、短編の翻訳のほか、柳下毅一郎による解説「ロボットの魂」や浅暮三文によるエッセイ「さらば、体育会系ヒューマニズム作家」、福井健太による当時の邦訳作品解題、林哲矢によるジョン・スラデック著作目録などが収録されている。
 翻訳の底本にはGateway Essentials Book から刊行されているKindle 版を使用したが、一部欠落が認められたため、適宜Gollancz 社版を参照した。
 作中の各種引用は、以下の訳本を参照しつつ、適宜文脈に合わせて改変した。ウィリアム・ブレイク「虎」(平井正穂訳/岩波文庫『イギリス名詩選』)。カール・ポパー『推測と反駁―科学的知識の発展』(藤本隆志、石垣壽郎、森博訳/法政大学出版局)。ウィリアム・シェイクスピア『ヴェニスの商人』(安西徹雄訳/光文社古典新訳文庫)。先人たちの訳業に感謝したい。また、スラデックの短編「不在の友に」は、本作に組み込まれる予定だったが、最終的にはオミットされたアイデアを元にした作品で、宇宙船〈ドゥードゥルバグ号〉に関する場面では重複する部分が多く、その箇所については『蒸気駆動の少年』収録の柳下毅一郎訳を参考にさせていただいた。

 最後になったが、本書の成立に関わってくださった人々に感謝を記しておきたい。〈奇想コレクション〉で日本オリジナルの傑作短編集『蒸気駆動の少年』を編み、『ロデリック』『遊星よりの昆虫軍X』といった長編を翻訳し、日本のスラデック紹介に大きな役割を果たしてきた柳下毅一郎氏。その訳業がなければ―具体的には、三宮の書店で偶然『遊星よりの昆虫軍X』を見つけることがなければ―わたしがスラデックに出会うことも、本作を翻訳することも決してなかっただろう。柳下氏にはスラデック以外でも、ジーン・ウルフやJ・G・バラードなどの翻訳で影響を受け続けてきた。自分の今のSFの趣向を形作った一人と言っても過言ではない。
 また、ホームページでスラデックの未訳長編を紹介し、その魅力を素晴らしい語り口で表現してくださった、故・殊能将之氏(その評は『殊能将之 読書日記 2000-2009』に収録されている)。あなたの紹介がなければ、Tik-Tok の原書を手に取ることは決してなかっただろう。惜しむらくは、生前にこの翻訳が間に合わなかったことだ。
 そして本書を編集された竹書房の水上志郎氏。どこの馬の骨とも知れぬ人間の持ち込み企画をあたたかく迎え入れ、評価してくださった氏の力添えがなければ、本書は決して出版できていなかっただろう。編集部の方々や装丁を担当してくださった方にも感謝したい。
 その他、翻訳上の質問(物理式など)に心安く答えてくださった知人たちや、翻訳を応援してくれた方々、そして陰に陽に支えてくれた古い友人たちにも感謝を。特に京都大学SF・幻想文学研究会の諸先輩方、畏友・空舟千帆氏と蟹味噌啜り太郎氏には、深い感謝を捧げたい。
 まだまだ書き足りないことだらけだが、今後もスラデック作品の紹介がますます進まんことを願って、一旦ここで解説の筆を擱きたい。これからもどうぞよろしく。

二〇二三年八月 鯨井久志

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