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❖節目の行事はなんだかんだ言ってもやっぱり大切〜Even if you say something about the milestone event, it's still important〜❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2022年3月16日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

◆節目の行事はなんだかんだ言ってもやっぱり大切◆

勤務校の卒業式があり、私は参加させていただいた。今年度は高校三年生4クラスの政治経済を担当していたので、担当クラスの生徒たちが巣立つ場面に立ち会えたことはとても光栄なことである。

私は小さな頃から式典にはそれほどポジティブなイメージがなく、自分の成人式は参加していない。大学の卒業式もメインの部分には参加せず、卒業証書だけ受け取っていたし、大学院は入学式も卒業式も参加しなかったと記憶している。

しかし教員となり、新入生や卒業生の担任をするようになると、こういった式典に対する捉え方も少しずつ変わっていった。ただし、自分自身と式典との繋がりという個人的な部分では、さほど大きな変化がないと思う。もし私自身にとって何か式典があるとしても、そこに参加するかどうか、多分迷うと思う。

だから式典に対する捉え方の変化はあくまでも、他者視点に立った場合の変化であり、他者が主体となっている式典と向き合うときは、自分の主義みたいなものは引っ込めて、他者のための式典が出来るだけ素敵なものになるように、式典の雰囲気の一部を構成している自覚の下でしっかりと参加しようと意識するようになったと思う。

この数年は、コロナ禍で様々な学校行事が中止になっている。式典なども規模の縮小や中止があり、かつての状態には戻っていない。

一方、コロナの影響は、リモートでの授業や勤務でも成り立つ部分が多いことを証明した。また職場ならば飲み会や歓送迎会を初めとした様々な会合など、伝統的なしがらみが無くなったことにポジティブな評価を与える動きもあった。それは合理性や機能性に立脚した量的要素を重視したものといえる。

しかしコロナの影響が長引き、あらゆる会合が無いのが当たり前になると、人と人との繋がりを渇望する逆転現象が生まれている。それは伝統や儀礼の中に隠れていた精神とか気持ちというような質的要素の再認識といえる。

やはり人間は合理性や機能性だけで成り立っているわけではなく、精神とか気持ちの部分が不可欠ということだろう。例えば、卒業式について考えると、高校三年生は三月になると既に次のステージに向かっていて登校していないことが多いだろうし、コロナ禍でソーシャルディスタンスなど感染対策の準備も増えるので、卒業式1日のためにわざわざ登校させるのは合理的でも機能的でもないという主張にも一理ある。

しかし昨年度、私は高校一年生の担任だったとき、コロナ禍を理由に入学式が中止になった経験から、先ほどの主張と逆の捉え方をしている。先ほど、「式典をあえて実施することは合理的でも機能的でもない」という展開を示したが、式典を実施しないことで、分かりやすい節目を感じられず、気持ちの切り替わりが上手く行われないとすれば、「式典をあえて実施することの方が実は気持ちの切り替えの点で合理的で機能的である」という逆の展開が成り立つのではないだろうか。

これまで合理的でも機能的でもないと思っていた活動であっても、失ってみるとその中には非常に大切な精神的な要素が隠れていたと気づく。そして、その活動を重んじることこそ実は、本当の意味で合理的・機能的なのである。

コロナの影響から、各国の首脳が直接会おうとすることは、合理的で機能的な視点から見送られ、リモートが増えたことは、首脳同士の繋がりを希薄にしてしまい、それがウクライナ情勢の一因になっているかもしれない。そう考えると、精神的要素の軽視が、結果として、逆に合理的でも機能的でもない最悪の方向に向かっている事例といえる。質的要素を軽視して量的要素を重視することは、結果として、量的要素さえも否定することに繋がってしまうわけである。
Due to the influence of Corona, the attempt to meet the leaders of each country in person was forgotten from a rational and functional point of view, and the increase in remotes weakened the connection between the leaders, which is one of the situations in Ukraine. It may be the cause. With that in mind, it can be said that the disregard for the mental element is, as a result, heading in the worst direction, which is neither rational nor functional. Disregarding the qualitative element and emphasizing the quantitative element leads to the denial of even the quantitative element as a result.

ただこうした合理性や機能性を基準とした選別は、基準に合わないものを取り除く「引き算」にはならず、逆に合理性や機能性では補えない大切な要素を浮かび上がらせる「因数分解」になっていることも分かった。
However, such selection based on rationality and functionality is not a "subtraction" that removes things that do not meet the criteria, but conversely a "factorization" that highlights important elements that cannot be supplemented by rationality and functionality. I also found that it was.

式典や会合は窮屈で堅苦しい部分はあるが、表面だけを見て価値判断をしてはいけないということを、コロナ禍という事態になって気づけたというのは何とも複雑な気持ちである。今回、卒業する生徒たちが4月には、しっかりと入学式を経験し、次のステージへの精神的な切り替えができて、素晴らしいスタートが切れることを願っている。

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#卒業式   #卒業のことば

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