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我楽多だらけの製哲書(N75)  ~ベランダの植物の変化とブッダおよびプロティノス~

これまで観察を続けているベランダの植物であるが、伸び方にしても、先端の形状にしても、目まぐるしく変化している。11月頃までは単に葉っぱが重なっているだけだったが、12月に入り「蕾」のようなものが表れ始めた。

そして12月中旬になると蕾は花へと変化し、植物の先端は鮮やかなピンクに彩られることとなった。そしてしばらくベランダ世界は「桃色の時代(バラ色の時代)」かと思っていた。

しかしその時代は長く続かなかった。ピカソの人生の流れとは逆に、「青の時代」を感じさせる変化がみられるようになった。鮮やかなピンク色はしだいに茶色っぽいものになり、花びらの代わりに綿のようなものが植物の先端を支配するようになっていった。

その様子から、平家物語の冒頭が当てはまるように感じた。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
奢れる人も久からず
ただ春の夜の夢のごとし
猛き者も遂にはほろびぬ
偏に風の前の塵におなじ

物事は移ろいゆくものである。植物の生命活動も同様である。造花でないかぎり、鮮やかな花の色がそのままということはないだろう。そんな造花でさえ、時間とともに劣化・風化するものであり、永遠に美しいままではいられない。

森羅万象は諸行無常である。そうして全てのものが循環している。朽ちて終わりではなく、次なる再生に向けた準備ともいえるだろう。事象一つ、生命体一つが永遠ではなく、必ず終わりがあることを伝えるのが「諸行無常」の本質ではないと私は考えている。

世界全体として眺めたとき、大いなる「サイクル」として、様々な事象、様々な生命体が関わり合い、繋がって循環しているということを示すのが、「諸行無常」の本質ではないだろうか。

そうして関わり合い、繋がっているから、単独で発生し、独立して存在するようなものもない。だから「諸法無我」も見えてくる。それは、ブッダが悟った大元の原理が「縁起」なわけだから、そこから派生した概念である「諸行無常」や「諸法無我」に関連性があるのは当然のことといえる。

そのように世界全体を一つの「サイクル」として捉えるのは東洋的な世界観ともいえる。始まりと終わりが円環的に繋がることで、両者は補い合う対等なものとみなされる。だから東洋では、陰と陽、善と悪、清と濁、動と静といった概念も、同様に、二つを対立とか優劣とかで考えることなく、補い合う一体的なものとみなされる。それは東洋医学の「漢方」に繋がっていて、身体の悪い部分だけに注目するのではなく、身体全体の循環で健康になろうとするのではないかと私は考えている。

だからベランダの植物の様子は、ブッダに言わせれば、繰り返される変化の一場面であり、ネガティブでもポジティブでもないのである。真理が目の前にあるだけなのである。

これに対して、西洋思想かぶれの私は、目の前の変化をどうしてもネガティブに捉えてしまう。生命力が躍動している状態を善なるもの、生命力を失って朽ちている状態を悪なるものと考えているからだろう。

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