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アンラーン💣リラーン📚ためらわん♫run36

⭐達成感から危機感へのグラデーション⭐️
(これまでの虚栄を解きほぐす「unlearn」のため、頭の中を刷新する「relearn」を躊躇なく進めるための記録)

今年度は社会科の教科担当として大人しく、授業だけに専念しておこうと思っていたのですが、私の中に巣くっている悪い虫がやっぱり動き出してしまいました。

4月から6月終わりくらいまでは粛々と授業していました。しかし、コラムによって生徒たちにメッセージを送りたいと思うようになり、一応、社会科のアプローチの一環としてコラムを週3回配信しています。

コラムは、インプットに重きを置いた【学びは「文化」 ~社会「で」学ぶ~】シリーズと、アウトプットに重きを置いた【学びは「文化」 ~答える「問い」と、探す「問い」~】シリーズの二本立てになっています。

どちらのシリーズも、コラムの最初に先哲の名言を取り上げるようにしています。そして、後者のシリーズの方を多めに配信していて、先日、第50回という節目になりました。

どんな名言を取り上げているかというと、

「人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。」(ヘレンケラー)

「人生は一冊の書物に似ている。愚かな者はパラパラとそれをめくっていくが、賢い者は丹念にそれを読む。なぜなら彼は、ただ一度しかそれを読めないことを知っているからだ。」(ジャン・パウル)

「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。」(太宰治)

という感じです。

コラムは一応、読んで終わりではなく、そのコラムを受けて、自分がどのように考えたか、アウトプットするための問いを投げかけています。もし書いたものを見せてくれたら添削しますよと言ってはいるものの、見せてくれた生徒は皆無です。ですから、もしかすると誰も読んでいないかもしれません。

担任をしているときは、帰りのHRなどでコラムを読んでもらったり、考えをまとめてもらったりする時間を設けることもありました。今年度は担任ではないので、このようにゲリラ的な配信で、読んでもらうかどうかは完全なる任意です。

ただ最近は担任のときも、生徒の受け止め方が変わってきているのか、私の働きかけに工夫が足りないのか、こういったコラムに対する反応は芳しくありません。

その中でも心に突き刺さり、今も引っかかっている言葉があります。
「あんなコラム書いている時間があったら、テスト前に確認しやすいまとめプリントを作ってほしい」

これはコラムか、まとめプリントかという単純な二者択一から出てきた言葉ではないと思っています。確かに生徒たちは、まとめプリントなどのテストへの即効性があるものに価値を感じていると思います。しかし、問題の本質はそこではなく、生徒たちが何を求めているか、その反応に気を配り、こちらの働きかけとして今まさに大切なものをその都度考えていく、それができていなかったということでしょう。

もしコラムに即効性がなかったとしても、コラムに触れることに異なる価値があることを私がしっかり伝えたり、またタイミングを考えて提示したりしていれば、さきほどの生徒の言葉は出てこなかったのではないでしょうか。

私が「コラムを毎回提示する」という外面的な部分を「目的」にしてしまっていて、単に提示が規則的に繰り返されるだけになっていたということだと思います。コラムはあくまでも「手段」の一つにすぎず、何のためにコラムを毎日提示しているのか、それを意識しなくなっていたのです。

教員生活もけっこう長くなり、最初の頃は意識していた大切なことが抜け落ちて、単なるルーティンになってしまっていることは、他にも心当たりがあります。

そう考えると、コラムが50回という節目を迎えたということについても、それを「達成感」としてではなく、同じ轍を踏んではいないかという「危機感」として、気を引き締めねばならないはずです。今日の記事の前半は、まさに「達成感」を賛美するかのような書き出しでした。しかし、色々考えながら書いているうちに自戒の念が生まれ、「危機感」に気づくようになりました。

SNSで綴るコラムは無責任・自己満足でも許されるものですが、授業の一環としてコラムを用いているならばそうはいかないはずです。自分の中でコラムの役割をしっかり見つめ直し、棲み分けをしようと思います。

#哲学   #ヘレンケラー
#ジャンパウル   #太宰治

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