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●オリムピックこぼれ話●~その玖~

★1964年10月22日の朝日新聞(香川版)…五輪外人観光客さっぱり、相次ぐ予約の取り消し
夏に行われた東京オリンピックは、無観客開催がほとんどとなり、外国からの観光客も来ない形になったため、経済効果が得られにくいことは予想ができた。
しかし1964年の東京大会でも、地方によっては観光客がそれほど来ない状況があったことが記事から分かる。観光客としても、滞在日数は限られており、また費用も有限であるため、時間も費用もできるだけ有効活用したいと思うのは仕方のないことである。
そして、当時の日本の地方は現在ほど世界の人々に知られているような魅力を発信していたとは思えず、また地方の側も外国の観光客を受け入れる体制が十分に整っていたとは思えない。

この数年間、観光客が激減しているわけだが、オリンピック期間中の報道ではオリンピック選手や関係者がバブルの外に出て、例えば浅草や銀座などに出没していたらしい。バブル内とバブル外との行き来が容易になり、2つの世界がつながってしまっていたとしたら、それは決して「パラレルワールド」ではないのではと当時、違和感を覚えていた。

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★1964年10月13日の朝日新聞(社説)…非同盟会議の成果
東西冷戦において、どちらとも一定の距離を保って、独自の立場で国際社会へメッセージを送っている集団が、1960年代初頭から会議の開催を始めた。これは「非同盟諸国首脳会議(非同盟諸国会議、中立国首脳会議)」と呼ばれている。

第1回は1961年9月に開催された。開催地はユーゴスラビア(現、セルビア)の首都ベオグラードであった。もともとユーゴスラビアはソ連を中心とする東側(社会共産主義陣営)であったが、ソ連との確執が表面化し、ユーゴスラビアの指導者であるチトーの主導で、非同盟諸国首脳会議は開催されることとなった。

この会議は冷戦終結後も継続して開催(基本、3年ごと)されており、直近では2019年に第18回の会議がアゼルバイジャンの首都バクーで開かれているものの、現在の意義をどこに見出すかが大きな課題となっている。

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★1964年10月22日の朝日新聞…教科書の検定
1960年の学習指導要領改訂に伴う教科書検定の中で、家永三郎さんが執筆した日本史の教科書が検定で不合格となった。
この判断を巡って家永さんは1965年の第一次訴訟に始まり、1967年の第二次訴訟、1984年の第三次訴訟という形で、検定制度の在り方を、憲法が保障する「表現の自由」・「学問の自由」・「教育を受ける権利」などに反するものと主張した。

第一次・第二次の訴訟では最終的に家永さんが敗訴となったが、第三次訴訟の上告審で最高裁判所は、検定制度自体は憲法に反するものではなく「合憲」としながら、検定内での裁量権については逸脱しているとして検定の一部を違法と判断した。そして国側に検定違法部分に対する40万円の賠償を命令し、32年にわたる家永さんの戦いは一つの区切りを迎えたのである。

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