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❖うわべの法教育にならぬように❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年10月23日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

ルールの全てが自分たちで作るべきもので、与えられるべきではないというのは、法教育の観点では不十分では?自分たちに、即時的には不都合なルールをあえて設定し、自分たちを矯正するような意識で子どもたちはルールを作れるだろうか。ルールは、個々を集めた世界のバランスが取れるように設定されるもの。自然界のルールは、重力とか気圧とか温度とか、疑いようのない明白な条件がきっちり決まっているところから、演繹的に広がっていくから、局所は特殊に見えたとしても、全体では調和している。人間が作るルールは、そういう疑いようのない明白な条件から始まっていない。必ず何らかの偏った、どこかが、誰かが得をするような結果のイメージが先にあって、それを上手く煙幕をはって見えないようにして、あたかもフラットなルールのようにしているものだから、違和感があるのだ。だから、ルールを作るとき、どうしても自分がかわいくなる。自分が一番損な役回りになるようなルールを積極的に作る物好きは少ないだろう。にもかかわらず、あらゆるルールを作るのは、常に自分たちだなどと早いうちから習慣づけたら、自分に不都合なルールは、単なる異物と認識することを助長してしまう。すると自分の最大限の幸福に繋がらない状況は集団生活なら、むしろそれが大抵の場合と考えられなくなり、ルールの価値を認識したり、ルールを尊重したりする姿勢は身につかないのでは。法教育で、合意形成の大切さを伝えることは悪くない。しかし、法というものがそもそもなぜ存在するのか、法が持つ価値は何か、法によって守られる利益、保護法益はどんなものなのかなど、法の作り方とか、公平と公正のバランスの取り方とか、手法やスキルといったものより先に知るべきもの、すなわち法の目的を学ぶ時間を削減してはならない。しかし法教育が進められる学校現場では、目的よりも、ゲーム形式や実践形式を取りやすい手段が主になってしまってはいないか。それは法を最終的に死に追いやることになってしまう。目的や原理を軽んじることなかれ。とはいえ、目的や原理ばかりを伝えるのも抽象論でジリ貧になりがちだ。自戒の念。目的や原理の話をしていれば、どんな形でも是とはならない。私も伝え方の試行錯誤が求められる。

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