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アンラーン💣リラーン📚ためらわん♫run30

⭐教室という空間は気づきの仕掛けの宝庫⭐️
(これまでの虚栄を解きほぐす「unlearn」のため、頭の中を刷新する「relearn」を躊躇なく進めるための記録)

シンガポール日本人学校中学部(通称、ジャパ中)のとき、季節のイベントに合わせて教室の装いを工夫するのが大好きでした。

教室という空間が、生徒たちの興味・関心が膨らむ「気づき」の場になればと思い、仕掛けを考えることが多かったですね。

旧正月(CNY)の頃の写真を振り返っていて、教室の様々な装いの写真が出てきました。

最近、バンコク子ども図書館のボランティアをしていても感じるのですが、「学び」には色々な形があると思います。

教室や図書館の展示・レイアウトは、生徒や子どもがそこに散りばめられた仕掛けに気づくものなので、「情報に『近づく』学び」になっていると思います。

それに対して、情報の送り手から知識が伝えられる講義形式の授業は、「情報に『近づかされる』学び」になっています。講義形式の授業は、この『近づかされる』という受動の度合いがかなり強く、昨今話題にされることが多い「主体的な学び」とは異なるベクトルと捉えられることが多いですね。

しかし授業であっても、情報の送り手が矢継ぎ早に伝えるのではなく、生徒が自分たちで気づくような環境を整えていくファシリテートを重視しているならば、『近づく』学びと『近づかされる』学びの良い部分を組み合わせたハイブリッドを実現できるように感じています。

ただし、ハイブリッドはあくまで折衷的なものであり、授業の到達地点ではないかもしれません。授業にハイブリッドで良いのだなどと胡坐はかかずに、教室という空間を利用した「情報に『近づく』学び」を参考にしながら、授業をどこまでそれに接近させることができるか工夫しなければなりませんね。

「私にとって真理であるような真理を発見することが必要なのだ。しかもその真理は、私がそのために生き、そのために死ねるような真理である。」
これはデンマークの哲学者で実存主義の先駆者であるセーレン・キェルケゴールの言葉です。彼が示した考えは「主体的真理」と表現されることが多いです。真理というものは、万人にとって平等で等質なもののように思われることがありますが、実際には、個々人の経験・状況によってその姿は変わってきます。だからこそ、どのように情報や知識と自分が繋がったのかは非常に重要で、その際、主体的に情報や知識と繋がった場合の方が、真理と自分は親和性が高くなると思います。

そのように情報や知識と繋がる空間や授業の仕掛けを考える「工夫の旅」に終わりはなさそうです。

#哲学   #キェルケゴール
#チャイニーズニューイヤー

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