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毎週一帖源氏物語 第三十二週 梅枝

 先週で授業が終わり、夏休みに入った。大学教員にとって、夏休みは自分の研究に時間を取れる貴重な機会である。授業優先が研究優先に変わるわけだが、それでも息抜きに『源氏物語』を読む時間には余裕が生まれそうだ。

梅枝巻のあらすじ

 姫君の裳着の準備に、六条院は忙しい。源氏は自らも「たきもの合はせたまふ」(253頁)が、他の方々にも調合を依頼する。二月十日、雨が少し降っている日に兵部卿の宮が訪ねてきたので、源氏は薫物(たきもの)の判定を依頼する。前斎院の黒方(くろばう)、源氏の大臣の侍従、対の上の梅花、夏の御方の荷葉(かえふ)、冬の御方の薫衣香(くのえかう)など、いずれもすぐれている。さすがの宮でも、優劣をつけがたい。
 その夜は管弦の遊びが催される。宮は琵琶、大臣は箏の琴、頭中将は和琴、宰相の中将は横笛をそれぞれ奏し、弁の少将は梅(むめ)が枝(え)を歌う。夜が明けてから、みなは退出する。
 翌日の夜遅く、六条の西の御殿で裳着が執り行われる。腰結を中宮が務めた前例はないが、后となった幸運にあやかろうとする意図が込められている。対の上はこの機会に中宮と対面したが、姫の母君は呼ばれていない。
 春宮の元服は、同じ月の二十余日のことであった。源氏を憚って人々が入内を控えるので、源氏は姫の入内を四月に遅らせる。大勢の妃が競うのが本筋だと考えるからである。
 姫君のために、名筆の草子が集められる。その折に、源氏は上を相手に仮名を論じる。名手だったのは、「中宮の母御息所」(265頁)であった。中宮や「故入道の宮」の御手はやや劣る。今の世では「かの君〔院の尚侍〕と、前斎院と、ここ〔話し相手である紫の上〕にとこそは書きたまはめ」(同)というのが源氏の見立てである。源氏は薫物のときと同じように草子を書くよう依頼し、自らも筆を執る。またも兵部卿の宮が来訪し、草子を論じ合う。
 内の大臣は、自分の姫君が美しく成長しながら、ふさぎこんでいるのを心配している。宰相の君は依然として意地を張っている。源氏は、あちらの姫君のことを思い切ったのであれば、他から婿入りの話が来ているので考えるように諭しつつ、結婚について自らの反省も込めて教訓する。宰相の気持ちは揺らいでいないが、姫君は世の噂を気に病んでいる。

裳着、再び

 この梅枝巻で、源氏が明石の上に産ませた姫君の裳着の儀が行われる。明石の姫君は十一歳である。行幸巻での玉鬘が二十歳を超えていて、私は「ちょっと遅いのではなかろうか」と記したが、やはり十代前半で裳着を済ませるのが普通なのだろう。腰結が中宮だったのは、「光る君へ」で彰子の腰結を皇太后の詮子が務めたことと呼応しているのだろうか。史実がどうだったのか私は知らないが、後に中宮となる姫君(彰子)の裳着で皇太后(詮子)が腰結を務めた実績があるなら、紫式部が物語において明石の姫君の腰結役を秋好む中宮に割り当てることを思いついたとしても不思議ではない。あるいは、「光る君へ」の脚本家が『源氏物語』の梅枝巻に着想を得て、あのような設定にしたのだろうか。

薫物

 薫物というのは、さまざまな練香(ねりこう)を調合して作るものであるらしい。練香の材料となるのは沈(じん)や白檀(びゃくだん)などの香木や麝香などで、これらは主に中国渡来である。
 新潮日本古典集成の巻末付録に『薫集類抄』の抜粋が掲げられていて、主な薫物の諸方(調合法)が説明されている。ぱっと見ただけでは具体的な手順は分からないし、たとえそれが分かったとしても実際の香りは想像できない。紫の上は「八条の式部卿の御方(はう)」(254頁)に則って調合しているが、それは黒方と侍従という薫香だそうだ。その他に判者の兵部卿の宮が称えた梅花を合わせている。
 『薫集類抄』の梅花の説明は分かりやすい。梅の花の香りを模したもので、春はもっぱらこれを用いるべきだ(「擬梅花之香也。春尤可用之。」(330頁))。紫の上は春を好むので、春らしい香りの調合に秀でているのも頷ける。それも八条の式部卿の方に基づいているのであれば、八種類の練香を混ぜなければならない。すなわち「沈八両二分 詹唐一分三朱 甲香三両二分 甘松一分 白檀二分三朱 丁子二両三分 麝香二分 薫陸一分」(331頁)。うん、さっぱり分からない。
 調合した薫物は、湿気のある土中に埋めて保存した。源氏も「西の渡殿(わたどの)の下より出づる汀(みぎは)近う埋(うづ)ませたまへる」(258頁)ものを掘り出させている。『薫集類抄』には「埋日数 付埋所」という記述もあって、それがまたすごいのだ。「八条式部卿宮 一宿埋馬矢下(クソ)、件方伝得陽成院書云々」(339頁)――「矢下」の左に「クソ」という読み仮名が振られていて、これが「糞」を意味するなら、馬糞にひと晩埋めるということだ。にわかには信じがたい。その次にある公忠朝臣の「黒方、侍従、春秋五日、夏三日、冬七日、埋之梅樹下」というのが平凡に見える。

仮名を論じながら女君との思い出を語る

 源氏は紫の上を前にして、仮名の書き手として優れていたのは誰かを論評する。そこで名前が挙がるのは、いずれも源氏が関係を持った女君たちである。六条御息所を筆頭に、その娘の秋好む中宮、藤壺中宮、朧月夜尚侍、朝顔前斎院、そして紫の上――物語の中締めとして、出演者の名前がクレジットで流れてくるような感覚がある。

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