未来少年コナン

中学生の頃「未来少年コナン」というアニメがNHKで放送されていた。

私は初回を見逃したのだが、たまたま見たそのアニメにどっぷりとはまり込んだ。当時ビデオはなかった。もちろんレンタルビデオ屋もない。従ってテレビは人生で一度切りの悲劇的な出し物と私には思われた。なぜなら私はそのアニメの世界に逃げ込みたいと真剣に願うほどだったからだ。今でも神様に何か一つだけ願いを叶えてもらえるとしたら、大学生の時に好きだったあの娘と結婚するよりも、コナンと共にハイハーバーや残され島で生きることを間違いなく選ぶ。大人になってからビデオ屋でコナンを見つけた時の私の感情がわかるだろうか。すぐさま全巻セットで借りて寝ずに見た。幻だった初回をみた感動は今も忘れない。
中学生の頃の私は仕方なく自分のカセットテープレコーダーをテレビの前に据えた。家族には咳もするなと警告した。録音したそのテレビ放送を私は何度も音だけを再生して楽しんだ。実はそれを思いついたのは最終回の前だった。もう終わってしまう。その悲しみがそのアイデアを生んだ。学校ではコナンの真似をして楽しんだ。学校をインダストリアに見立てて排水管を一階から三階まで登ったり降りたりした。時は夏休みでなぜか水かけゴッコが流行っていた。私は仲間から逃げるのに排水管を使った。それを実現するために私が払った苦労はまるで「ホーリーランド」の主人公のようだった。毎日筋トレに励んでコナンになろうとした。一年も経つと私はブラスバンド部だったにも関わらず、柔道部や野球部と腕相撲をしても一度も負けなかった。夢を追いかける気持ちは人を作り替える。私は背も小さく弱いいじめられっ子だった。コナンのおかげで強くなった。だが未来少年コナンは現実ではない。テレビだ。終わってしまった。もう会えない。僕にとってのその喪失感はどう説明したらわかってもらえるだろう。普通は現実ではないから、オタクとして関連商品を収集したりする現実的な反応になるのだろう。だが僕にとっては内的真実であって、断じて仮想空間ではなかった。なぜ自分があの世界から離れて生きねばならないのか。どうしてテレビは、いや大人はそんな酷いことをするのか、わからなかった。残酷さという意味であれ以上に酷いと思ったことは今までに一度もない。
当時の私は自分を犯罪者と規定し、未来の希望など何も持てなかった。犯罪者というのは、事実そうだったからだ。八歳で傷害事件を起こし、それから不良小学生として万引きなどの犯罪を繰り返していた。大人は誰一人として、先生も親でさえも、私を慰めたり抱きしめたりはしなかった。不思議なくらいに誰も私に近づこうとはしなかった。汚れた魂、この世に降臨した悪魔という烙印を押された。そんな現実世界にはどうしても耐えられなかった。夢のような幸せな世界で暮らしたかった。それがコナンの世界だった。

後にあれが宮崎駿の演出だと知った。宮崎さんは私のような絶望を知っているだろうか。その絶望から作品を作っただろうか。そうではあるまい。だが、彼の作品はいつも残酷だ。あまりにも現実的ではないから。そしてあまりにも理想だと思わせるから。子供が感じる鑑賞後の無力感、喪失感を知っていたら、彼は決してクリエイターではいられなかっただろうとさえ思う。当然そんなにのめり込む幼い魂の存在を想像できなかっただろうから、非難はしない。人は他人の心を正しく想像することはできない。

私のような現実世界と内的真実との乖離に苦しむ人間を救うことができるのは神しかあるまい。

後に私は救われた。今生きているのはそのおかげだ。だが私のように苦しみ、今もまだ救われない人はいないだろうか。こもり人として生きている人たちはそういう人ではないのか。だが私にも彼らの心を想像することはできない。もう夜中の三時だ。外は雪が降っている。私はそれを眺めながら、こんな小品を書かねば寝られない、そんな人生を送っている。

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