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海がきこえるのは、本を読んだからかもしれない

スタジオジブリが1993年に制作した「海がきこえる」は、数あるジブリ作品の中でも特殊な位置づけがされることの多い作品だ。特殊なのは、当時の若手中心に制作されたこと。また、テレビアニメ用に制作されたので大々的には劇場公開されていないこと。ファンタジー要素が入っていない青春ドラマであるところも、他の多くのジブリ作品とは雰囲気が異なる。

僕は「となりトトロ」を劇場公開時に観てから(当時、9歳。初めて2歳下の弟と二人だけで映画館にいった。カップリングされていた「ほたるの墓」との二本立ては、強烈な経験だった)、それなりにジブリ作品を観てきたつもりだったが、この映画の存在を知らなかった。テレビ公開時は14歳。当時、日本の映画館での公開もミニシアター系の数館に限られ、よほどのジブリ作品愛好家でもなければ、知られていない作品かもしれない。

物語は、大学生となった主人公の杜崎拓の高校時代の回想という形ですすむ。杜崎が高校2年の夏、武藤里伽子という転校生が東京からやってくる。容姿端麗、スポーツも万能の彼女だが、当然のごとく他の同級生とは異なる存在だ。杜崎の親友である松野は里伽子に恋心を寄せる。そんなつながりもあってハワイでの修学旅行の途中で杜崎は里佳子に頼まれ、バイトで貯めた大金を貸すことになる。そして、高校3年生のゴールデンウィークには突然の成り行きで2人で東京に行くことになる。修学旅行時に貸したお金は、里伽子が母親に内緒で、東京の父親のところへ会いにいくための隠れ資金だったのだ。東京でも、高知に帰ってきてからも二人の生活は青春ものにありがちな交流はなく、いくつかの小さな出来事が起きるだけだ。

全体を通して、お決まりのような恋物語は展開されず、杜崎、里伽子、松野(杜崎の親友)の心の機微や気持ちのすれ違いもニュアンスを持った形で表現されながら物語は進む。お互いの思いは真正面からぶつからず、昇華せず、もやもやはそのまま。しかし、それは多くの人たちの青春の実感に近いとも言える。だからこそ、観ている人それぞれが、それぞれの平凡な記憶の欠片と照らし合わせ、ノスタルジックな気持ちになれる。そこがこの作品の真骨頂だと思う。

しかし、僕が気になったのは主人公、杜崎拓の常に落ち着き払った様子だ。無邪気さは感じられず、どんな場面でも、そんなものだろうとクールに反応する。あんな高校生はいないんじゃないか、というのが僕の最初の印象だった。

そんなことを考えていたところ、もしかしたらあの杜崎のクールさは、こういう育ち方をしたからではないのか、という妄想をかきたてるエピソードに出会った。あるウェブの連載記事である。その連載では、毎回、筆者が年月をかけて集めてきた古今東西の「伝説の授業」が紹介される。

アーティストの椿昇氏の教育や沖縄の美術の先生の授業など、どれも面白く、考えさせられるものばかりで、毎回読むのを楽しみにしていた。その連載の最終回で、筆者本人のエピソードとともに紹介されているのが(こちらも素晴らしい話なのでぜひリンクをお読みいただきたい)、ブックディレクターの幅允孝のエピソードだ。

愛知県の津島市出身の幅氏の家では、子どもの頃「本がツケで買える制度」というものが存在していた。本屋さんで欲しい本が出てきた場合は本屋さんがタイトルと値段を記録しておき、月末に母親が支払いにいくという制度だ。細かな話は記事を読んでいただくとして、これが僕のなかで高知の杜崎拓と重なった。

杜崎は、中学校の時は「神童」と呼ばれていたというから、小学校の時から本を読んできたはずだ。本がツケで買えたかどうかは定かではないが、行きつけの地元の本屋さんがあったはずで、漫画から図鑑、小説までさまざまな本を読んでいたに違いない。

僕は高知に行ったことはないが、札幌や福岡、広島、奈良といった都市には暮らしたり、仕事で通ったり、そこそこ馴染みがある。どの土地でも、本屋さんがあり、映画館があり、少し背伸びをした子どもにも十分アクセスが可能な文化施設があった。現在、その数が減ってきているという話もきくが、この映画が公開された30年ほど前は、もっと多くの地域に根ざした書店があり、子どもたちが出入りしていたはずだ。東京で育った僕にも、近所の商店街にあった15畳ぐらいの広さしかなかった書店に足しげく通い、好奇心を育ててもらった記憶がある。

まったくの妄想である。しかし、杜崎のクールさは、この物語において目をみはるべきポイントだと思う。その背景には、地元の本屋さんの存在があったのではないかという妄想を僕に激しく掻き立てる。「海がきこえる」のご当地ツアーが開催されるのなら、杜崎が通っていたかもしれない本屋さん探しをするべきだ。

気になって調べてみると、原作者の氷室冴子は北海道は岩見沢市で育ち、札幌で大学生活を送り、学生時代から作家的生活を始めていたそうだ。妄想の塗り重ねでしかないが、作者の中で、地方都市でこそ、東京のお金や学歴、向上心が評価軸になりすぎた文化をスルーできる文化を生み出せるはずだ、という思いが「海がきこえる」に込められていたのではないか。

少なくとも、「風呂場で寝る人」である杜崎に、里伽子が惹かれたのは、受験だのお金だの、見栄だのというつまらない評価軸に流されていないところだったのだと思う。

杜崎が聴いていた海の音は、人々の思い出や記憶が溶かし込まれた海の音だ。人々の物語を静かに聴く時、人は自分のためでもなく、誰かのためでもなく、努力するとか、成長するとかでもない、そこにあるだけで尊い人の営みの積み重ねがもたらした物語と対峙している。だから、海の音という波形ではなく、海という存在そのもの、「海がきこえる」のだ。

東京でも地方都市でもいい。海がきこえる人が生まれるには、まちかどの本屋が必要だ。それが、「海がきこえる」を観てからわいた疑問と妄想を経てたどりついた、僕なりの結論だ。

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