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個人的な人生の意味を探せば、幸せになれるのか問題

「日々の生活のなかで、意義深さを感じる瞬間はどんな時か?」と聞かれたら、皆さんならどう答えるだろうか。

僕ならば、「本」に関わることをあげるだろう。より具体的には「本を買おうとする時」あるいは「本を勧める時」。前者は自分のため、後者は誰かのためなので、全く異なるシチュエーションだが、どちらにも共通しているのが「何かが生まれるかもしれない」という期待感だ。何か面白いことが知れるかもしれない、何か役に立つかもしれない、予期しないことが見えてくるかもしれない。そんな期待がわきあがり、ちょっとした人生の意味を感じる。

だから、僕は自分が「本を勧められたとき」にも、なるべくその提案に心を向けることにしている。勧めてくれた人の中に何らかの未来への期待があったはずで、それを受け取れるかもしれないからだ。そして、最近勧められたのがこの本。

フィンランドに興味がなくはないが、このタイトルを見ただけだったら手に取らなかったかもしれない。しかし、今回、この本を勧めてくれる人がいた。

この邦訳タイトルについては、いろいろと苦言が呈されているから省くが(僕に勧めてくれた人も一言添えていた)、読み始めてみると、原題の「ワンダフルライフ 意味のある人生を探すためのヒント(拙訳)」のとおり「意味のある人生(Meaningful Existence)」が主なテーマなことがすぐわかった。特に前半部分は、哲学や心理学、歴史、エピソードなどを交えつつ「人生の意味」にまつわる諸説・諸問題に考察を加えていて、面白い。

最も「そうなのか」と思ったところは「人生の意味」という問題が、人類の歴史の中では、とても新しく、この100年とか200年の間に出てきたばかりのものだという指摘だ。それこそ、ひと昔前は、人々は人生の意味に悩む必要はなかったのだ。ほとんどのことは神様が教えてくれていたし、みんな人生の意味なんて考えるほど暇ではなかった。平均寿命が半分以下だったりすることもあるわけで、生きることで精一杯だったり、そうじゃない貴族とかお金持ちであったとしても、意味なんかに悩む必要がなく、それぞれの役割を迷いもなく全うしていたのだ。

ところが、科学が発展し、神様の存在感が薄れた社会は世俗化し、どんどん個人主義的になっていき、人々は自由を得た。そこまでは良かったものの、それでは自分が生きている意味ってなんだったっけ?と悩んでしまう人が出てきた。食うに困らない人が俄然増えたのにもかかわらず、これほど孤独や寂しさを抱える人が多いのは、人類史上でもめずらしい、というか初めてのことなのだ。

さらに、この問題を難しくしたのが、ロマン主義だった。神様がいなくなり、科学がどんどん世界を便利で味気ないものにしていく中で、西洋出自のロマン主義は「人の心の中」を大事にすることにこだわった。愛だの、使命だの、人生の意味だの、というやつだ。それはそれで人々の希望となったのおそらく、ロマン主義の神通力は今でも続いていて、売れているビジネス書ランキングの半分くらいは、この系譜だったりするのではないか。だが、何事も行き過ぎると弊害が出てくる。

現実離れした大きすぎる「人生の意味」が人々を苦しめてしまう。それは、「人生に意味なんてない」という厭世派も、結局は同じ。いずれも普遍性が人々の重荷になってしまうのだ。マルテラが指摘するのが、こうしたロマン主義が重要視する「普遍的な意味」を求めることの弊害だ。現実離れした大きすぎる「人生の意味」が人々を苦しめてしまう。それは、「人生に意味なんてない」という厭世派も、結局は同じ。いずれも普遍性が人々の重荷になってしまうのだ。マルテラが指摘するのが、こうしたロマン主義が重要視する「普遍的な意味」を求めることの弊害だ。現実離れした大きすぎる「人生の意味」が人々を苦しめてしまう。それは、「人生に意味なんてない」という厭世派も、結局は同じ。いずれも普遍性が人々の重荷になってしまうのだ。マルテラが指摘するのが、こうしたロマン主義が重要視する「普遍的な意味」を求めることの弊害だ。現実離れした大きすぎる「人生の意味」が人々を苦しめてしまう。それは、「人生に意味なんてない」という厭世派も、結局は同じ。いずれも普遍性が人々の重荷になってしまうのだ。

そこで、マルテラがさし出す処方箋が、「個人的な人生の意味」を求めよ、という提案。つまり、自分自身の日常の中で、どんなことに意味や意義を感じているのか、どんな人たちと一緒にいたいのかといったことを、あくまで自分目線で探していこう、というもの。

その提案を真に受けて考えてみて、僕にとっては、本を買う時、本を勧める時が、意義深さを感じる瞬間かもしれないと思ったのだ。しかし、本が好きだといっても「人生の意味」とまではいかない感じもある。言ってしまえば、たかが本である。

いや、この考え方こそが「ロマン主義」の罠にハマっている証拠だ。マルテラは、ボーヴォワールの言葉をひきながら「曖昧さ」について語っている。

人は皆、特定の境遇の中にいる。その境遇の中で、自分なりの価値観や信念、願望を持っている。人生の中でなにを経験するにしても、それが前提となるのだ。それを前提とした上で、経験を通じて倫理的に成長し、より良い価値観を探していけばいい。成長するというのは、つまり、自分の価値観、目標、使命などに適宜、修正を加えていくことだ。ボーヴォワールは「人は自分の存在の曖昧さを打ち消してはいけない。むしろその曖昧さを認識し、受け入れることが大切だ」と言う。人生の客観的な意味を探すのでもなく、無から意味を作り出すのでもなく、自分が今、何に、どうすることに価値を感じているかを知り、それを踏まえてさらに成長を目指す。「曖昧さ」を受け入れるとは、自分の現在の感覚を絶対視せず、謙虚でいるということだ。常に新しくなにかを学び、成長できる余地を残すということである。それこそが、意味のある人生を歩む道だろうと私も考える。

本を買う時も、勧める時も「もしかしたら良い(と思ってくれる)かもしれない」という思いと、「全然面白くない(と思われる)かもしれない」という思いで揺れている。勧めるときなんて、たとえ相手が「面白そうだね」と言ってくれたとしても、その人が実際にその本を手にとって読み進める可能性はかなり稀だ。(なるべく心を向けようとしている、と書いている自分ですらそうだのだから)

それでも、なぜ買うのか。勧めるのか。

マルテラ風に言うならば、本を買う(勧める)とは、自分が今、どうすることに価値を感じているか、の表明だ。それは絶対的と言うより包括的という言葉がしっくりくるくらいの直感に近い感じがある。そして、また変わっていく可能性だって大ありだ。勧めてみたものの、勧めた相手に否定されちゃったりすることだってあるだろう。せいぜいそんなものなのだけれど、そんなものだからこそ、その時々で、曖昧さも残すなかで「これかも」と言っていくことこそが大事なのだ、と言うのが僕がこの本を読んで受けとったメッセージだ。これからも直感に従いつつ、曖昧さも残しつつ、本とつきあっていきたい。


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