インタビュー:母が魔女になった頃の話を聴いた
あやしげな魔女の会
僕が少年だった頃の印象的な思い出のひとつが「魔女の会」だ。その会は、年に1度だか2度ぐらいの頻度で実家で行われた。夕方になると数名の魔女だとされる女性たちが集まってきて、食事をしながら談笑していた。幼いながら、彼女たちの個性的な洋服やしぐさ、微笑みにただならぬものを感じていた。「私は魔女4号なの。1号、2号って呼び合っているのよ」と母は僕たち兄弟に説明していた。4名の魔女たちが楽しげに過ごしているのを横目に、子どもたちはもう遅いから寝なさいと寝床に向かうのが常だった。
やがて時が経ち、魔女の国からビックリマンチョコがやってくるようなこともなくなり(当時大人気だったシール付きチョコ菓子をどこかから買ってきて「魔女の国で買ってきたのよ」と母が話しながら渡してくれるのを、僕は2年生くらいになるまで信じていた)、魔女の会も開かれなくなった。また、魔女たちそれぞれに仕事があることも、彼女たちが旅先だったどこか遠くの外国で出会ったらしいということも知った。
しかし、なぜ「魔女の会」という名前だったのか。その真相を詳しく聞いたことはなかった。PLANETS Schoolで出た「身近な人にインタビュー」するという課題を考えていて思いついたアイデアの1つが、この魔女の会を含む、母の若い頃についての話を聞くことだった。思えば、母の昔話をじっくり聞いたこともない。奈良で生まれ育ち、中学生の時に父親の転勤で東京の吉祥寺にやってきて(父親の会社の社宅があった)、都立高校と女子大を卒業し、僕を産むまで出版社のようなところで働いていた。その程度の「あらすじ」を知っているだけだ。
ちなみに僕が生まれたのは1978年。その時母は29歳だったから、ほぼ1970年代が彼女の仕事人生であり青春(?)だった。その時代を中心に話を聞くことにした。
キュレーターになりたかった
──まずは、母さんが働いていた時のことを聞いてみたいのだけど、学生時代にバイトしていたところで働き始めたって言ってたよね。どういう経緯で働くことになったのかな?(以下、母をFと表記する)
F:就職したのは、Y子ちゃんのお父さんに相談したら、紹介してくれた会社だったの(母の奈良にいた時からの幼馴染。Y子さんとFの母親どうしも仲が良かった。Y子さんは僕も何度かお世話になったことがあり、今でも家族で交流がある)。社長が奈良出身の人だった。
──へぇ、そうなんだ。当時は、どんな風に就職活動してたの?
F:そうね、当時は決まった就活のやり方はなかったね。キュレーターになりたいと思って駒場の日本民藝館とか青山の根津美術館とかを訪ねていって「キュレーターの仕事ありますか?」って聞きにいったり、岩波書店で働けたらいいなと思って岩波書店で働いている人に話を聞いて「女子大の人は採らないよ」と言われたり。要は何も分かっていなかったのね(笑)
──いきなり民藝館とか美術館に行くってすごいね。
F:それも、その2〜3箇所だけだけどね。私、スペイン語学科じゃない。卒論でインカ帝国の土器を卒論のテーマにしていて、国会図書館とか通って、出版の仕事もいいなぁと思って、Y子ちゃんのお父さんに「出版社とかないですかね」って聞いたら、「そんなことやっている人いるでぇ」と紹介してもらったの。
──何をやっている会社だったの?
F:エンサイクロペディア。「アメリカーナ」というアメリカの百科事典を売るための会社。日本全国に営業マンが飛び回って、個人とか図書館とかに百科事典を売っていた。まあ、英語の読めない人にも売りつけるわけだから、一種の詐欺だよね。営業の人たちは『中身は関係ない。俺たちは何でも売れる』とか言っていたし。でも、それだけじゃビジネスが成り立たなくなってきて、新しく自分たちで子ども向けの英語教材を作ることになって、その教材作りチームにスタッフとして入って、働き始めたのが最初。4年生の11月ぐらいだったかな。コピーしたり、原稿を取りに行ったり、フジテレビの録音スタジオで録音する手伝いをしたり。そのまま、そこの社員になった。
──なんか面白そうな仕事だね。
F:そうだったかもね。
──百科事典も英語の教材もいくらくらいだったのかな。
F:10万円とか。今のお金だと1ヶ月の給料以上になると思う。だから、分割払いでね。営業マンたちが、全国で売り歩いていた。
チームでの転職
彼女が仕事をし始めた1970年ごろは、まだまだ日本が急速な経済成長を続けていた頃だ。大学卒の初任給の平均が1970年の4万8000円から、1974年には8万3000円とほぼ倍近くになっていることからも、その凄まじさがうかがえる。役に立つかわからない、高価な百科事典や英語教材でも買ってしまおうという購買力と向上心が社会に満ち満ちていたのだろう。
──その後も、英語教材の仕事をずっとしていたの?
F:最初は、日本人のライターで教材を作ってたのだけど、途中からロバート・ホワイティングとドゥワイト・スペンサーという2人のアメリカ人のライターが担当するようになって、そのアシスタントを私が担当してたの。ロバートは上智大学に留学してて、スペンサーはどういう経緯で日本に来たのだったかな。ミシガン大学の出身。
それで二人と仕事してたんだけど、彼らが子ども向けの英語教材の第二弾を、タイムライフ社に売り込んだの。知ってると思うけど、アメリカの雑誌の日本支社。それで、私も二人と一緒にタイムライフ社に転職することになった。なんで私も一緒にということになったのかなぁ。なんでもNoと言わずに働いていたからかな。
お給料も二人が掛け合ってくれて、ぐんと高くなって。だって、(あなたの)お父さんよりも月給が高かったんだから。ボーナスがなかったから年収にするとどっちが高いかわからないけど。あなたが生まれた時に、『どうする?僕が育てようか?』と言われたくらい。(笑)
それで、タイムライフでも前職と同じように、録音のための原稿チェックだったり、イラストレーターと交渉したり、コーディネーター的な仕事をしていた。タイムライフの編集室の片隅に机があってね。
──何か印象に残っている仕事とかある?
F:ロバートたちとの仕事の後に、美術全集の担当になった時かな。当時のタイムライフの編集部は5つか6つの島があって、そのうちの1つが美術全集だった。美術全集も、営業マンが図書館とか個人の家に売り歩くの。私は美術全集の中のベラスケスとゲインズボローとターナーの担当になって、翻訳者や監訳者の大学の先生に原稿をもらいにいったり、キャプションをリライトしたり。レイアウターの人とのやり取りもあった。美術全集の仕事が性に合っているって思った。
──仕事は忙しかったの?
F:印刷から出てくる時は泊まりがけになったりしたけれど、普段は定時に帰っていた。でも、辞める前の最後の方で5−6人で日本語の百科事典の企画の仕事をしていたのだけど、あれは大変だったなぁ。
--------
ホワイティングさんとスペンサーさんは、僕が幼い頃に実家で会った記憶がある。魔女の会に似たような違和感があったことも覚えている。母に外国人の友達がいることがよく飲み込めなかったのだと思う。
オーダー服をつくりまくるカニ族
──趣味とか、休日とかは何をしていたの?
F:旅行をたくさんしてた。学生の頃からバイトして稼いだお金は旅行に使っていて、ユースホステルを泊まり歩いてたからね。カニ族ね。
──カニ族?
F:そう、知らない?多くの若い人たちが大きいリュック背負って動いていたから、そう言われていたの。それと、買いたいものは買えたわね。結婚する27歳まで実家で暮らしていたし。
それと、服をオーダーで作ってたわね。ウェディングドレスもそうだったし、普段の服も結構お金かけて作っていた。中学校の親友が、有名衣料品店のデザイナーをしていて、その縫い子さんをやっていたSさんに何着も作ってもらった。当時、欲しいと思うような服がなくて。輸入ものの布屋さんに行って好みの布を買って、外国の雑誌を見てこのデザインで作ってくださいってお願いするの。1着何万円もするものを何着もつくっていた。全部で20着くらい作ったかなぁ。最近まで、その時の布を貼り付けて、服の値段を書きこんだデザインブックを持ってたけど捨てちゃった。
プロ向けの北欧ツアーに参加
20代の若い時に、オーダー服をバンバン作っていたとは・・・。僕が知っている、20代から服をオーダーして作ってた人といえば、プロサッカー選手の三浦カズぐらいだ。20代でそこまで服づくりに入れ込んでいたら、着る服もセンスも独特なものになっていたはずだ(昔の写真に映る母のファッションがやけに派手なことの理由の1つがわかった)。そうだ、そろそろ「魔女の会」の核心に迫っていこう。
──「魔女の会」について聞きたいのだけど、あれは旅先で出会った皆さんなのだよね。そもそもどうしてそのツアーに行くことにしたの?
F:あれは、最初の会社にいた時。百科事典を売ってたって話をしたでしょ。その「アメリカーナ」の販売代理店だったのがグロリア・インターナショナルという会社で、私はその会社のPR部門、社内報をつくる部署の横に机があったのね。オフィスは、赤坂にあって、当時の東急ホテルの目の前にあった。すぐ近くの一木通りにガラスとか食器とかが置いてあるお店があって、好きでよく行ってたの。そのお店に「北欧の雑貨と食器をめぐる旅」のツアーのチラシがあって、「これは行きたい!」と思って参加を申し込んだの。
ツアー参加者は、みんなプロの人ばっかりだった。30人くらいいたかな。ガラス工場の人もいたし、アーティストの人やお店を持っている人、会社から派遣されている人、あと大学の先生も3人くらいいた。ズブの素人は私だけ。
──へえ、どんなところにいく旅だったの?
F:家具工場とか、ガラス工場。コスタボダにも、イッタラにも行ったわね。「モノプロ」というシリーズの食器を作った企画会社がツアーを企画してたから、訪ねた工場で、向こうの会社の人やデザイナーさんたちとの打ち合わせも設定されてた。あと、ツアーバスが事故にあって、みんなでスウェーデンの病院にも行ったわよ。
──え、大丈夫だったの?ツアーは中止になったの?
F:みんな軽症だったから、そのまま旅を続けられたけど、地元の新聞にも出たのよ。「日本人ツアー客がバス事故に遭う」って。
──魔女の4人はどうして仲良くなったのかな。
F:Sさん(魔女2号)は、当時勤めていたガラス会社からの派遣で、Hさん(魔女1号)は今もあるけど北欧雑貨のお店を神奈川でやっていて、Oさん(魔女3号)は美術大学の先生。元々ツアー参加者に女性が少なかったのもあるけれど、当然興味は近いし仲良くなったのよね。魔女の会がうちで行われていたのは、うちの子どもがまだ小さかったから。みんなが我が家までいらしてくれていた。そういえば、少し前にもSさんとHさんと集まったわよ。
──どうして「魔女の会」という名前になったの?
F:Hさんのご主人が、「君たち魔女みたいだ」と言ったのがきっかけ。それで、魔女の会って呼ぶようになったの。
--------
こうして「魔女の会」が生まれた頃の母の人生を垣間見ることができた。今回、改めて話を聴いてよくわかったのは、あたりまえだけど、母の感性やネットワークが、僕が生まれる前の時代に、じっくりと培われていたということだ。母が僕ら3人兄弟を育てている間でも、知人のアートギャラリーの手伝いをしたり、養護学校への寄付のためのフリーマーケット出店をしたり、実家の古民家をリノベーションするなど、ユニークな活動をしていたことともしっかりつながる。
そして、その母の歴史を知ることは、かつての母の僕たち兄弟に対する態度や接し方についての理解も深めてくれた。気にはかけるし応援もするけれど、基本的には自由放任、勝手にやってねという母のポリシーは、やりたいことを突き詰めれば、なんとかなるし良い出会いもある、という彼女自身の若い頃の経験とつながっていたのだ。そして、その道のりは、そのまま自分の道のりとも重なるところがあるじゃん、という苦笑いしたくなる気づきにもなった。
近しい人だからこそ、知らないことがたくさんある。母へのインタビューは、人生にかけられた魔法の秘密を少しだけ垣間みるような経験となった。魔女4号に感謝!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?