夏の終わり旅2024 その9
会場からの帰りは、シャトルバスで中綱の集落へ。またしても一瞬でシャトルバスに乗車し、とてつもなくスムーズに下界へと脱出。助手席にて下の駐車場で頑張るスタッフさんのおにぎりやドリンクを膝の上に抱えるという、大事な役割を仰せつかる。運転手さんも、運転の合間におにぎりを頬張って食事を済ませている模様。本当に4日間、お疲れ様です。
チャンスがあるか?と思い、列車が来るまでの間、会場を出て北陸方面にむかうクルマを狙ってのヒッチハイク。まつりの余韻をシェアしながら向かいたいなとも思ったが、しかし結局捕まらず。
南小谷行きの大糸線列車に乗り込んだ。
実はこのいのちの祭り助け合いオープンチャットというのがラインのグループにあり、昨晩にそちらでも乗合を呼びかけてみた。残念ながらマッチする条件の方はいなかったものの、時間条件が合わなかった方が、わざわざ会場で僕のことを見かけて声を掛けてくれた(たぶんラインの画像が特徴的だから、すぐにわかったのだろう)
最後まで居ようかどうか迷っているということだったので、それは折角の機会だし、最後まで楽しんでください!と、エールを送りあったのだ。
4日間のいのちの祭り総括。
一言で表現するのであれば、このいのちの祭り、本当にカオスな空間であり、世界の縮図的な側面も見られたりした。
光の部分が沢山あったのだけれども、それに負けないぐらいの対比する影の部分も。
思いのほか沢山いた子どもの姿をみてもそうだ。外で思い思いの格好で(なかには真っ裸で)泥んこになって遊んでいる姿もあれば、室内でゲームに没頭する姿も。ある意味、令和らしいといえば令和らしい。
恐らく、ここに参加しているみんなが、各々、感じていることやチャレンジしたことが違うだろう。
僕も、こういった機会だから!と、ちょっと自分の中のタガを外して、色々と挑戦できたのはとても楽しかった。
そして、沢山の出会いや再会。
多分、ここに来ることが出来たというのは、何かしらの縁があって来れている。そもそもチケットも、僕が入手したタイミングではまだ充分にあったが、その後恐らくSNSなどで拡散された結果なのか一瞬で完売。
参加したくとも会場に入ることさえできないという人も大勢いただろう。
さらに、台風接近(実際には会場への影響は雨が降ったぐらいで済んだ)もあり、交通機関の都合で来れなかった人もいるだろうし、大事を取って諦めた人もいるだろう。
毎日のように知人との偶然の出会いがあったが、これだけ広い会場、もしかしたら知っているけれど出会えなかった人もいたかもしれない。
少なくとも、ちょっと勇気を出して参加してみたじゃんけんライブが、僕にとっては出会いのきっかけを増やす機会になったのは間違いない。
出会い、再会の面白さを再認識できたという意味が、僕にはあった。
夜ご飯を食べていたお店で聞いた話だが、今回のいのちの祭り、かなり重要な回だったのだようだ。1988年から、12年おきに開催されて今回で4回目。
いわゆる、創立にあたったメンバーはいまや高齢。殆どは次回の開催時には生きていないであろうという年代だとか。
前回まで第一線で引っ張て来た世代が今回、次世代の若者に運営のメインを受け渡す。いわゆる世代交代の場としても、力が入っているのだそう。
おそらく、12年後にもまた開催されるのだろう。これをきっかけにこういった世界にのめり込む…ということはないだろうが、時々は足を突っ込むという意味でもまた次回、参加してみたいなとは思う。
ちょっと心残りは、恐らく会場に来ていただろうと思われる、この祭りの参加キッカケとなった、タイ・バンコクのゲストハウスで出会って、いのちの祭りを教えてくれた旅人に出会えなかったこと。
まあ、また縁があればどこかで出会えるのかもしれない。
明るい話題だけではない。
実は、このいのちの祭りに関わって、2人の命が亡くなってしまった。僕はそれを目撃したわけでもなく、聞いた話だけだ。
一人は初回からいのちの祭りを支えていた方で、スタート日の前日に老衰で亡くなったのだそう。これは初日の夜、シャトルバスを待っているときに聞いたのを始め、何人からか伝え聞いた。
また、もう一人は最終日の朝。
僕も朝、現場を通りがかり、なにやら物々しい雰囲気。その際は搬送後ではあったものの、事故があり警察の現場検証にまもなく入るところということを運営のアナウンスによって聞いていたが、後日、自死だったらしいということを聞いた。
片や天寿を全うし、片や自らの意志で。
こういったことが起こるのも、この祭りによってさまざまなエネルギーが+にも-にも増幅し、各々に作用するということなのかもしれない。
自分はその場に立ち会ったわけでもなく、その瞬間も純粋に祭りを楽しんでいた。
このことにやるせなさを感じなくもないが、よく考えればこの世の中も同じこと。
世界は途方もなく広い。自分たちが楽しんで生きているこの瞬間も、どこかで苦しんでいる人もいる。
それに対して、僕含め何を具体的にできるわけではない。
イマを全力で生きる=楽しむ。というのが、各個人に出来ることなのかもしれない。小さいことかもしれないけれど、そんなことを教えてくれた。
こういった出来事も含めて、いのちの祭りはある意味世界の縮図であると感じた一つでもある。
故人や、その場に立ち会われた人に心の平穏が訪れることを祈ります。