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ベテルギウスのシュークリーム

 静かな喫茶店の中に、一人の青年が入ってきた。
「何となく、寄りたくなったんですよね」
 明けない夜の中にあるその店には、青年のように、特に理由もなくふらりと立ち寄る人もいる。
 彼はカウンター席に座った。
「それはそれは、いつもありがとうございます」
 店主はコーヒーカップを磨きながら言う。

 この店は、夢の中と現実の世界を行ったり来たりする。輪郭線が曖昧で、どちらにもなれるし、どちらにもなれない。中途半端な位置にあるからこそ起こる、不思議なことがある。
 本来、全く別のところにあって、交わるはずのない、様々な世界の人々がやってくる。それも不思議なことの一つだ。

「隣、座ってもいいですか?」
 1人の男性がやってきて、青年に聞いた。
「はい、いいですよ」
「ありがとうございます」
そう言うと男性は、青年の隣で静かに腰を下ろした。
 彼には腕が4本あった。一対の腕で上着を脱ぎながら、もう一対で文庫本を取り出す。
 青年はその様子を眺めながら、こんな人が暮らす世界が、自分の知らないどこかにはあるのだ、と妙に納得した。
 それに、この喫茶店の店主自身フクロウの顔をしているため、青年は男性に対してそれほど強烈な違和感を覚えなかった。そういうものなのだろう、と思った。
「ベテルギウスのシュークリームをひとつ、あと、カフェインレスのコーヒーください」
 彼は先ほどまで眺めていたメニューを下ろし、注文をした。
 店主はかしこまりました、と言うなり、カウンターの奥に引っ込んでいく。
「ベテルギウスのシュークリーム……。一体どんなシュークリームなんです?」
 4つ腕の男性は、右上側の腕で顎の辺りをさすりながら、青年に聞く。
「ベテルギウスってあるじゃないですか? あの、オリオン座の中で一番輝いてる星」
「ああ、ありますね」
「あの星が放つ、赤い光を生地とクリームに混ぜ込んで作っているシュークリームらしいんですけど」
「へえ、面白そう」
「このシュークリーム、実際のベテルギウスみたいに、膨張と収縮を繰り返しているんです。そうすることで、中にある熱を一定の温度に保つことができるらしいんです。
 熱が籠ってきたら膨張して、冷たくなったら収縮する。
 膨らむと、生地の中の構造に隙間がたくさんできて、そこから熱が逃げるんだそうです」
「逆に冷たくなってきたら、再び隙間を閉じて熱が逃げないようにする、と?」
「はい、そうみたいです」
「変わったシュークリームですね」
 青年は微かに微笑みながら、そうですね。と答える。続けて、
「それから、ベテルギウスの光をクリームにも混ぜてあるんで、クリーム自体が柔らかく発熱するんです。不思議とその温度が、心が落ち着くと言うか、安らぐというか」
 4つ腕の男性は、静かに頷いている。
「その温度が何かいいんですよね」

「お待たせしました」
 店主は、シュークリームとコーヒーを持って現れた。
 確かにそれはごくゆっくりと、拡張と収縮を繰り返している。静かに動く心臓の鼓動のようで、そのリズムすら、安らぎの要因になっている気がする。
「これは面白い。私にも同じものをいただけますか」
 4つ腕の男性は店主に注文した。
「はい、すぐに」店主は言って、準備を始めた。

「私は昔から、甘いものに目がなくてね」
 男性は持ってきた文庫本を一度脇によけ、青年に話し出した。
「はい」
「シュークリームもよく食べたものです」
「そうなんですか」
「子供の頃、よく父親が仕事帰りに買ってきてくれて。それが当時の私にとっての楽しみの一つだった」
「なんだかいい話ですね」
「ありがとう」
 文庫本の表紙にそっと触れる。
「今では私が父親になってしまった。子どもたちが小さい頃にはよくシュークリームを買って帰ったものだが、彼らももうすぐ大人になる。時間の流れというのは、実にあっという間だと思います」
「そうですね……」
 青年は一口、コーヒーを飲む。カウンター席のテーブルに反射する、琥珀色をした照明の色を眺める。
 男性は、どこか遠くにある景色を眺めるように、コーヒーカップの入った棚の方を見つめている。

「お待たせしました。ベテルギウスのシュークリームです」
 店主は再び戻ってきて、それを差し出す。
「ありがとうございます」
 男性は静かに受け取り、テーブルの上に置く。皿とテーブルの当たる音が微かに鳴る。
「ちなみに君は今、一体どんなことをしているんですか?」
 男性は、青年に向かって聞いた。
 青年は指についた粉砂糖を落としながら、男性の方を見る。
「ここの夜は終わらないんです。時間もたっぷりある。君が嫌じゃなければ、聞かせてもらえないですか?」
 青年は少し考える素振りをした後で答えた。
「はい、僕みたいな人間の話であれば、ぜひ」


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