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入り江

 その入り江には、様々な世界のものが流れ着く。
 浮き球、電子レンジ、扇風機にカンテラ。
 様々な世界のものが流れ着く、ということは、この世界のルールから逸脱したものも、時々見つかるという事だ。
 例えば、何に使うのか、どう使うのか分からない、どこかの文明で発明された機械。
 食べることができるのか怪しいけれど、一応はそれらしい形をしている、見たことのない果物。
 ガラス製の軸の内側で、いくつもの機構が複雑に絡んでいる筆記具。
 ある男は、その入り江の近くに小屋を建て、流れ着くものをコレクションしていた。収集していく中で、疑問に思うことがあった。
 様々なものが流れ着くということは、この周辺の海域は、ひどくゴミだらけになっているのだろうか? と。けれど、その実そうでもないらしかった。釣りをすれば、食料となる魚は問題なく釣ることができたし、入り江に押し寄せる波も綺麗だった。
 男はこの生活に何ら不自由を感じることなく、暮らしていた。
 そんなある日のことだった。日課の入り江巡りをしていた彼は、また何かを見つけた。
 近寄ってみると、それは柔らかく発光する球体だった。もし身近なもので例えるならば、"月"のようなものだった。あまりの美しさに持ち帰ろうとしたが、びくともしない。スイカ一つ分くらいの大きさだったため、一人でも持ち上げられるだろうと思ったが、予想は外れた。
 もともとそこに存在していたように、地面の一部であったかのように、一切動かない。男は仕方なくそれを諦めて、家に帰ることにした。
 異変が起きたのはその日の夜のことだった。いつものように、小屋とは別にある保管庫で、今までに流れ着いたものを眺めていた時。
 棚に飾ってあったカンテラが、ゆっくりと数回、明滅したのだ。
「なんだ……?」
 男は思わず呟き、再びその現象が起こらないかと、暗くなったカンテラに、無言で見入った。
 チ、チ、チカ。チ。
 光る。消える。再び光る。何度も繰り返される。今度は別の場所で何かがブオオオ、ウ。と鳴り始める。扇風機だった。ブラウン管のテレビが付き、砂で傷がついた瓶は内側が淡い水色に瞬く。
 何事だろう。男は驚いた。今まで集めてきたものが動いたことなど、一度もなかったからだ。
 外に飛び出す。動転した心を落ち着けるためだった。
 夜の海には霧が立ち込めていた。ふとその奥に、光るものがあった。件の月のような球体だった。
 見ると、生き物が発するもののように不規則な光を放っている。不思議なことにそのリズムは、保管庫の中にあるものたちの動きと連動しているようだった。

 ***

 その日以降、彼は、月のようなものと、入り江に流れ着いたものとのつながりについて調べてみることにした。
 男には、人生の楽しみは? と聞かれて、答えられるものがあまり多くなかった。そんな中で入り江に流れ着くものの収集は、数少ない趣味の内の一つだった。
 調べていくうちに分かったのは、入り江に流れ着いていたのは本物の月であるということだ。
 月のような球体が流れ着いて、やがて一カ月は経過しているのに、どういう訳か、夜空に月が顔を出さなくなっていた。理由は分からなかったが、あの真っ黒な空に浮かんでいたはずの月は入り江に流れ着いたらしい。
 男は、一体どうしたものかと思案していた。
 流れ着いてしまったものは仕方ない、と割り切ることもできたかもしれない。
 けれど、男にとってそうするには、落ちてきたものの存在があまりにも大きすぎた。月の浮かばなくなった夜空。それによって、人々が空を眺める回数は少しずつ減っていき、いつしか下ばかりを見て歩くようになっていた。
 このままではまずい。何とかして月を夜空に戻さなくては。男はさすがに焦り始めていた。
 けれど、なぜ月が落ちてきてしまったのか、それが分からなければどうすることもできない。とにかく、月を観察してみることにした。
 淡い黄色。微かに黄緑と橙色が混じり、温かな光を放っている。触れてみる。何も起こらない。見た目よりはひんやりと冷たく、少し湿っている。
 その表面を一撫でし、手の平を見てみる。
「おや、これは」
 手には汚れが付いていた。色褪せた薄橙色の、ほこりのようなもの。
 もしかしたら、と思った。
 これを拭い取ってやったら、もとに戻るのでは?
 例えば、これは月の疲れで、人間が疲れを取るため風呂に入るように、もしくは眠るように、月にこびり付いた疲れも定期的に取ってやらなければいけないのではないだろうか。
 男はさっそく、布切れを持ってくる。それを使って、そうっと表面の汚れを落としていく。想像していた以上に汚れは簡単に取れた。
 一通り終わらせると、彼は満足した様子でそのまま小屋に戻り、いびきを立て始めた。
 翌日、月は入り江から消えていた。男の想像通り、月の汚れを落とすことが、その疲れを癒すことに繋がったのかもしれなかった。
 男は少し寂しそうに、けれど安堵に包まれながら、押し寄せる波の形をずっと眺めていた。

 これは余談だが、それ以降男の住む入り江には、定期的に月が流れ着くようになった。男は月の疲れを癒すために、毎回、その汚れを落としてやる。
 月が来る直前はいつも、保管庫に並んでいるものたちが一斉に動き出すので、とても分かりやすいのだそうだ。

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