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修羅(雑記)

 いつから春が嫌いになったのだろう。
 男はすっかり暖かくなった四月の歩道を歩きながら思った。
 街じゅう桜が咲き誇り、春の訪れを嬉々として知らせている。
 そんな中で、彼の胸中だけはひどく凍えていた。その冷気は脳まで侵食し、彼の思考を著しく低下させていた。
 季節が巡る度に、また新しいものが。生き生きとした感情、喜びや始まりがこちらに近づいてくる。
 いくら拒もうとしても、知らん振りをしながら押し付けられる。新しいものを。命の喜びというものを。
 男もかつてはそういったものに興味を持っていた。その中にいることに喜びを感じていたはずだったのに、いつの間にかそれが歪んでしまった。
 人生が、何も得られないまま終わってしまう、という恐怖や不安を抱いたことが幾度もあった。そんな考えに陥る度、どうにか自分を奮い立たせ、歩んできたつもりだった。
 それが、何度も繰り返されるたび、踏み固められる地面のように少しずつ、時間をかけて、感情に起伏が無くなっていった。
 何も感じない。というより、感じたくない。何かを感じることすら面倒で、鬱陶しく思うようになった。その辺りからだ。世界の色が少しずつ褪せていったのは。
 歩道を歩くたびに足裏に伝わってくるアスファルトの感触も、桜の花びらに滲む青い影の儚さも、その美しさも、命が芽吹いた匂いも。
 その全てが青黒く沈んでいく。
 恐怖や不安を押し殺して、踏みつぶし、押さえつけてきた。その時の、どうやっても体に馴染まないものを、無理やり自分の血肉にするような、強烈な気色の悪さ。呼吸をするたび、歩を進めるたびに、その嫌な感触が鮮明に蘇ってくる。
 今まで何もして来なかったわけではない。ただ、やり方がまずかった。
 押さえつけて、無かったことにしたのだ。平らな、どこまでも何もない場所を作ることに執心した。
 その結果、今になって固めたはずの地盤が緩み、その奥に押し込めたもろもろが吹き出しそうになっている。
 これが決壊したとき、自分はどうなるのだろう、と男は考えた。
 正気でいられるだろうか。それとも、全てを捨て去ってしまうのだろうか。いっそこのまま、全て投げ出してしまおうか、と自嘲気味に笑う。
 これほど良い天気をこれほどまで鬱陶しく感じる日が来るなど、誰に予想できただろう。
 きっと誰も予想できないからこそ、これほどまでに胸が痛むのだろう。
 日差しが青い。景色の全てがこの感情の全てを逆撫でする。

 男にとって春は鉛毒のようなものだった。

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