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ネオンセット

「数年前まで都会で暮らしてたんですよ」
 その男性客は、喫茶店の主人に向かって、少し愚痴るように言葉を吐いた。
「そうなんですね」店主はいつもの落ち着いた声で応える。
「けど、やっぱり色々あるじゃないですか? 実家に帰らなきゃいけない理由が出来ちゃったとか」
「ええ、そうですね」
「けど、なんかこう、モヤモヤした気持ちを抱えたままで帰ってきちゃって。だからなのか、ここ最近、ずっと眠れないんです」
 一通り話し終えた男性は、入店してからずっと手に持ち続けていたメニューに視線を落とし、言った。
「ごめんなさい、何か愚痴っちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ。好きなだけ話していただいて」
「ありがとうございます」
 申し訳無さそうな声。それから一言、おどおどと伺いをたてるふうな声色で話した。
「何かおすすめとか、ありますか?」
 店主はそうですね、と呟いてから答える。
「ネオンセットとか、どうでしょう?」
「ネオンセット?」男性は一体なんだろうという表情で、メニューを探す。すぐにそれは見つかった。
 そこには、美味しそうな写真と一緒に、一言だけコメントが添えられていた。

 ネオンカフェモカとネオントーストのセットです

「ネオンカフェモカとネオントースト?」
 男性は、初めて聞く食べ物の名前に首を傾げた。
 店主は説明を始めた。
「ネオンカフェモカは、コーヒーにネオンチョコレートという、ネオンライトみたいに発光するチョコレートを入れたもの。ネオントーストは、トーストに新鮮なネオンの光をはさんだものです。両方ともネオンライトを使っているので、せっかくならセットにしてしまおうと思い立って作ったメニューです」
 男性はそれを頭の中で思い浮かべ、ふむふむと何度か頷いた。
「なるほど、面白そうですね。そのセット一つください」
「はい、かしこまりました」

 ***

 しばらくしてそれは運ばれてきた。
 柔らかく光を放つカフェモカと、その隣のトースト。男性は、目の前に置かれるそれに、かつて感じた都会の景色へのあこがれを重ね合わせていた。
 初めて一人で過ごした都会の夜や、その眩しさ。知らないものばかりに囲まれているのに、なぜか胸が踊っていた日々のこと。
 懐かしい記憶とともに、もう戻ってこない過去に対する儚い痛みが滲む。
 ああ、いつからこんな風になったんだろう。
 いつだったか、初めて見た夜景の鮮やかさのことを思い出す。テーブルの上に置かれたカフェモカとトーストが、その色が、その日の色と重なる。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
 男はカフェモカを一口含んだ後、トーストに手を伸ばす。ちょうどいいサクサク感とバターの香り。その中にキラキラと輝く具材。様々な色が混ざり合って、変化するたびに味も変化する。赤色はトマト。緑がキャベツで、ピンクがハム。
 様々な味が浮かんでは消える。甘さも辛さも、酸味も苦みも。トーストの中で複雑に絡み合う味。不思議と調和がとれている。
「何か変な味ですね」
「そうでしょう?」店主は笑う。
「あ、いや、不味いとかではなく、絶妙に美味しいんですけど、こう、綱渡りしているような美味しさと言うか」
 店主はより、からっとした笑い声をあげて答える。
「確かにそうですね。このよく分からない美味しさが、癖になるという人が結構いらっしゃるんです」
「分かります」
 しばらく男性は黙々と食事を続けた。静かな時間が流れる。
「これからどうしようとか、決まってるんですか?」
 男性は、口に含んでいたトーストを飲み込んでから答える。
「いえ、まだ。一応働き口は見つかったんですけど、どうするかなって」
「なるほど」

「もし、また何か話したいことでも出来たらいつでもいらして下さいね」
「はい、ありがとうございます」
 答えながら、男性の心の中にはひとつ、微かな光のようなものが灯っていた。それはとても小さく、本人でも気づかないほどに小さなものだったけれど、それでも確かに、そこに存在した。

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