花札は海外に舞う
日本で開発されたゲーム用カードは数多ありますが、その代表格が花札でしょう。12の月を象徴する花が、それぞれ4枚ずつで48枚。札の強さもまた、光>タネ>短冊>カスの4種類です。
元をたどれば、天正時代(1573~92年)以前にポルトガルから輸入された南蛮カルタに行きつきます(カルタとはポルトガル語でカードの意)。これは4スート12ランクのプレイングカード(いわゆるトランプ)であり、現在我々が知る同種のものより1ランク少ないのです。
南蛮カルタは4スート12ランクですが、花札では12スート4ランクと逆転しています。この花札の起源については文献によって諸説ありますが、明治二十四(1891)年の『温古の栞・14篇』によれば「享保年中柳澤家盛んなる頃將軍家坊主衆の發明製造せしもの」だそうです。坊主衆とは江戸城での大名や役人に対する世話係。享保年間は1716~35年ですから、今でちょうど三百年前になりますね。柳澤家のなかでも吉保は、徳川五代将軍綱吉の側用人として名を馳せ、本駒込に六義園をも造成しています。今では都立庭園になっていて誰でも訪問できるので、その風景を愛でながら「武家の婦女子専ぱら翫弄し」ていたという当時に想いを馳せるのも一興です。
なお制作の動機については、明治四十一(1908)年に永沼小一郎が著した『古今室内遊戯餘談』に詳しく、南蛮カルタを元にした“点付き”のかるた(めくりふだ)が賭博に使われるのを見た「あるやんごとなき方」が、これを大いに嘆いて「古の花合といへる遊戯」から材をとり「花鳥の繪などを以て」作ったのだそうです。
当時、札自体は「花カルタ」、それを使った競技は「花合わせ」と呼んで区別されていましたが、次第にごっちゃになっていきます。なお「花札/花カルタ/花合わせ」というのは総称であり、この300年間の歴史のなかで、さまざまなバリエーションが生まれては消えています。
確認される限り、固有名称がわかり、かつ現存する最古の花札は『武蔵野/むさしの』という銘柄で、生誕地が関東であることを示唆しています。浜松歌国『摂陽奇観』巻之四十六の文政二(1819)年の項に「禁止された」との記述がありますから、それより前には存在していたことがわかります。
対して、現在コンビニや百貨店で普通に手に入る銘柄は『八々花/はちはちはな』です。「八々/はちはち」という技法の別名は「横濱花/よこはまはな」もしくは「羅紗緬花/らしゃめんはな」。長崎出島が閉鎖され、代わりに横浜が開港されたのは安政五(1859)年のことです。羅紗緬とは、横浜に寄港する西洋人を相手にする、公娼あるいは愛人のこと。待ち時間を利用して、ポーカーのように「出る/下りる」のある「八々」技法が遊ばれていたようです。「八々」の名の由来ですが、札点の合計が264点で、基本プレイは3名なので、3で割ると88点……ということです。上方屋片岡商店が大正五(1916)年に出版した、片岡六合雄『花かるたの遊び』収録の「花かるたの歴史」によれば、この「勝負法は時の大官後藤某といふ人が案出したもの」だということです。幕末から明治初期にかけての大官で後藤といえば、後藤象二郎でしょうか? ただ当時のルールはまだ簡単なもので、以来ずっと改定がなされてきました。
庶民に広まり始めたのは四半世紀後の明治十九(1886)年のことで、銀座で上方屋が『花がるた使用法』というルールブックを出版しています。
その後もルールの改定追加はおさまらず、一応の完成形は、さらに半世紀後の昭和8年(1933年)頃となります。おかげで「八々」はかなり複雑になってしまい、地方ルールも多く、今日では日常的に遊ばれることはありません。我々は『八々花』を使って、本来の「八々」技法ではなく、「こいこい」などより簡単で短いゲームを遊ぶようになってしまったのです。
とはいえ、これは日本での話。実は花札は海外でも遊ばれており、場合によっては日本より盛んなのです。では今から、どの国で、どんな銘柄の札で、どんな技法が遊ばれているのか、順に見て行くことにしましょう。
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