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表現の自由とは

行政が発行する広報誌。
これを「面白い」「楽しみ」と言っている住民はどれほどいるのだろう。
あくまでも私の主観だが、一桁ではないだろうか。

制作に携わっているわけだが、正直、私の住む場所の広報誌は面白くないと思う。
読んでいる世代も高齢化が進み、若年層はもはや手に取ることもないのではないだろうか。
私も制作に携わるまで、広報誌を手に取ったことは片手で数えられる程度。
多くの人がそんなものでないだろうかと思っています。

そこで、いかにして多世代の住民に読んでもらうかと考えた時に、いわゆる行政らしい文章ではないもの、ポップと言うと語弊があるかもしれないが、わかりやすく、型にはまっていないものが必要なのではないかと思う。
もちろん、公的機関が発行するものではあることは前提としてあれど、読んでもらう、手にとってもらうことがなければ正直無駄なのでは・・・と。

そこで、なるべく取っ付きやすいものが良いのではと、思考錯誤してきた。
でも、そこで働くのは上からの圧力。
以前も話したが、自由にやってという反面、気に入らないと修正をかける。もちろん、修正が悪いとは言わないが、1人の判断で右にも左にも変わるのはおかしいのではないだろうか。結局のところ、自分が満足いくかどうか、そして自分が上から評価されるかどうかなのではという疑いの目を持ってしまう。
そんなことをしているから何も変わらないし、ワンマンで色々がことが決定されてしまうのではないかと考えざるを得ない。

そして、修正を頼むにしても物の言い方と言うものがある。
ライターとしての経験がある人から言われるのであれば、100とは言わずとも聞き入れようかと思う。ただ、たかが1人の上司が頭ごなしに、半ばイラついた様子で「今回の文章どうなってんの?」と詰め寄ってくるのは違うのではないか。
私自身も100の文章を書けているかと言われると、もちろん至らない部分はあるだろうが、それにしても経験のない人からの圧力となるとさすがに黙ったままと言うのも癪だ。こっちにもプライドってもんがある。

文章って模範解答があるわけではないけど、その人の個性を出せる場所。
最低限のルールに則った上で、広報誌であれば、自治体の魅力を最大限に引き出して伝えていくもののはず。でも、それが1人の判断と意見でその人の色になっていく。これって、もはや誰がやっても同じものしか出来上がらないじゃないか。それこそ、AIが進化している今、人にやらせる必要があるのか?とまで思えてきてしまう。
そこで、人に頼む。しかも、外部から来た地域おこし協力隊に依頼していると言う時点でその人の表現力を発揮させるべきなのではないのか。

表現の自由とは何なのだろう。
「あー言えばこー言う」のやりとりに何の意味があるのだろう。

上の立場だからこういった発言をして許されるとかいう時代ではないんだから。そこで、何か意見してもまたその上は「あいつがいないと」とかいろんな理由をつけてその役職を与え続ける。こうやって負のループが生まれ、若手は離れていき、ますます地方は過疎化が進み、最悪は財政破綻とまでなるだろう。

でも、私がいる自治体はそんな危機感がない。
結局、今の自分達が良ければ良いわけです。
そんな場所に未来はないと私は思う。

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