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吉野家騒動が暴いた「粉飾の文化」

早稲田大学での講座で、若年層の女性を対象にしたマーケティング手法を指して「生娘をシャブ漬けにする戦略」などと発言したとして、吉野家常務の伊東正明が解任された。

この発言は何が問題だろうか。女性蔑視か。薬物の譬え話か。企業の社会的責任の欠如か。それとも、人権の軽視か。

たしかに間違いではないのだろうが、これらだけなら一般によくある失言の一つであろう。だが、発言者の属性を改めて見てみると、筆者にはより深刻な事態が見過ごされているように思えてならない。


マーケティング業界の本性

騒ぎを起こした伊東正明は、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)でのブランド再建に携わるなど、経歴を見るとマーケティング界の第一人者のようである。こうした人物による件の発言を、我々はどう捉えるべきか。

調べてみると、「……漬け」というのは、マーケティングやコンサルティングの業界では一部で普通に使われている言葉らしい。

25日付『ファイナンシャル・タイムズ』の記者レオ・ルイスによる記事が、この問題に対する補助線を提供してくれている。

〔冷笑的で粗野な概念に基づく顧客蔑視が例外的と看做みなされることに〕成功した柱の一つは、「カワイイ」というコンセプトを容赦なく武器にしたことである。「カワイイ」とは、「ハローキティ」などのアニメの大スターに与えられた「可愛らしさ」で、あらゆる年齢層の消費者にあらゆるものを売るために使われている。こうしたアプローチと、最も卑劣なマーケティング手法を洗い流してしまうような可愛らしさの能力との勝利は、ある程度消費者の共謀に見出だされる。

上記『FT』記事より(筆者訳)

騒動の傍ら、吉野家は20代の女性モデルを起用したキャンペーンを展開していた。若い女性を当て込んだ広告は、図らずも「シャブ漬け戦略」と表裏一体のものであったことを消費者に印象づける結果となった。

つまり、今回の件で明らかになったのは、「カワイイ」文化の創出が、往々にして品性を省みない露骨なマーケティング手法とセットで行われるものだということだった。その意味で、消費者の側も決して無罪とは言い切れないのである。

『月曜日のたわわ』広告はなぜ非難されたか

「カワイイ」という概念が卑しい企業活動の中和に利用されるのは、「可愛らしさ」が無害性を象徴するものだからに外ならない。

注意が必要なのは、「可愛らしさ」とは表現物自体が生み出すものではなく、その表現物が対象とする人物像によって創り出される、ということである。

4月4日付の『日本経済新聞』朝刊に掲載された『月曜日のたわわ』(講談社)の全面広告は囂々ごうごうたる非難を浴びた。作中に性描写はないものの、満員電車での女子高生に対する男の劣情を描いた場面があることから、「痴漢を助長する」とか「女性軽視」という非難がソーシャル・メディアを賑わせ、挙げ句の果てにはUNウィメンまで「容認できない」と日本経済新聞社に抗議し、同日本事務所長が「男性が未成年の女性を性的に搾取することを奨励するかのような危険もはら」むと発言する始末であった。

4月4日付『日本経済新聞』朝刊に掲載された『月曜日のたわわ』(講談社)の広告

それに引き換え、女性に読者が多いという「ボーイズラブ」と呼ばれる男性同性愛を題材にした作品はほとんどお咎めなしといっていい。過激な性描写のある漫画でさえ、ウェブサイト上で何ら制限がかかることなく販売されていることも珍しくない。

両者ともに同類なのに、その反応はまるで正反対である。理由は至って単純で、前者は男、後者は女を対象にしたものだから、という点に帰着する。何と言っても、『たわわ』に対する「性犯罪を助長」という主張こそが、作品の対象者を念頭に置いていることの何よりの証左である。要するに、前者は男の劣情をかき立てるので容認できないが、後者は女の空想に留まるから構わない、と言っているに等しい。

「粉飾できる」のが正義

上記の例は、負の面をいかに隠し通せるかは、所謂いわゆる「弱者」を効果的に利用できるかどうかにかかっていることを、如実に物語っている。言い換えれば、よこしまな意図を有しているかどうかは問題ではなく、それを上手に粉飾できるかどうかが「正義」の基準になっている、ということである。

そしてその判断基準には、人畜無害の象徴として「可愛らしさ」が選ばれる。そこに、女子供は保護されるべきか弱い存在だ、という価値観が根柢にあることは言うまでもない。

外見は人を欺くというが、多くの人は見た目の印象と中身の質とを混同している。表現や活動の本来の意図は一向に顧みられることがなく、代わりにいわば弘報手段の良し悪しで、一切の物事の是非が処断される世の中に我々は生きているのである。しかもその基準が著しく公平性を欠いているゆえ、この判断が尖鋭化する危険に陥ることのないよう、絶えず監視の目を注がなければならない。

こうして見てみると、ジェンダーだのSDGsだの脱炭素だの、現在流行している企業の取り組みも全部胡散臭く思えてくる。政治的妥当性ポリティカル・コレクトネスがそうであるように、いかにもっともらしく聞こえる活動であろうとも、所詮は偽善の産物の範疇でしかないからだ。

本内容を基にした投書が2022年4月29日付の『ファイナンシャル・タイムズ』に掲載されました。

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