見出し画像

サルノカミ #3

 それから月日も経ち、忠吉のケガもすっかりよくなった頃のことです。
 忠吉がねぐらへ帰ってくると、平治の姿が見当たりません。当初はさほど気には留めておりませんでしたが、陽がすっかり沈んでしまってからも、平治はなかなかもどってくる気配がありませんでした。さすがにこれは何かあったのでは、と忠吉も思うようになりました。とはいえ、どんくさい平治のことですから、おおかた木の実を採る途中で木から落っこちてしまったか、夜道に迷ったかのどちらかだと思ったのです。そこで付近の森の中をさがしてみましたが、どこにも見つかりません。今度は捜索範囲も広げてみましたが、やっぱり平治の姿はどこにもありませんでした。おくびょうな平治のことなので、そう遠くへは行っていまいとさまよい歩いているうち、忠吉はいつのまにか人里ちかくまでおりてきていました。

 そのとき、ふと何者かの気配を感じ取った忠吉は立ち止まりました。かすかではありますが、話し声が聞こえてきます。どうやら数人の男が、近くの森の中を歩いているようでした。

 忠吉はおもわず身構えました。こんな夜おそくに、人間が森の中を歩き回っているのは奇妙なことでしたし、人間たちは明らかに何かを探しているようでした。忠吉は、この前取り逃がした自分をとっつかまえようと見張っているにちがいないと思いました。そこで、見つからないようにこっそりと引き返そうとしたところ、彼らの仲間らしき男が、別の方角からやってきました。

「おおい、勘兵衛。また一頭とっつかまえたぜぇ」

 男の胴間声が森の中に響き渡りました。忠吉の胸に、何か冷たく、重いものがのしかかり、足を止めずにはおれませんでした。

「例のやつか?」
「わかんねぇ、これで五頭目だけんど、どれも少しばかし体がちいさいかもしんねぇな。いつも村を襲ってくるやつはもっとでっかくて、おっかねえやつだもんなぁ」

 そのとき、銃声が一発、ズトンッ! とすさまじい音を立てて、夜の森に響き渡りました。忠吉は恐怖と不安に押し出されるようなかたちで、一目散に走り出しました。

 ねぐらへ戻っても、平治の姿はありません。忠吉の不安は、よりはっきりとした黒い塊となって襲ってきました。
 しかしどうすればよいのかわからず、かといってじっとしていることもできない忠吉は、しばらくねぐらのまわりをただうろうろと歩き回っていましたが、やがてねぐらの奥へ引っ込むと、途方にくれて座り込んでしまいました。

 青白い月の光が、わだかまった忠吉の心のうちを透かすかのように、黒い雲の隙間からぼんやりと差し込んできました。お地蔵さまがその光に照らされて、うっすらと浮かびあがります。忠吉はそのお地蔵さまをじっと見つめつづけていました。お地蔵さまはあいかわらず、にこやかに笑っているような表情をこちらへと向けています。忠吉にはだんだんとそれが自分を嘲笑っているように思えてきて、むかむかしてくるのでした。

「ふん! 何がサルノカミだ。こいつが来てからというもの、災難続きではないか。守り神どころではない、こいつは疫病神だ。こんなもの、こうしてくれる!」

 忠吉はお地蔵さまを持ち上げると、おもいっきり地面に叩きつけました。お地蔵さまは今度こそばらばらに砕け散り、吹き飛んだ胴体の破片と頭部がころころと転がりました。

 いちど火がついた忠吉の怒りはそんなものではおさまりませんでした。ねぐらを勢いよく飛び出すと、一目散に里のほうへ駆け下りて行きました。

 村のふもと近くまで来たところで、忠吉は足を止めました。たくさんの人間がたき火を起こして一箇所に集まっていたからです。赤く燃える炎に照らされて、ゆらゆらと揺れる影法師は、なんとも不気味に見えました。さらに、彼らのかたわらにはなにやら影の塊が、小山のかたちをなして横たわっていました。

 忠吉はおそるおそる近寄って、その様子をうかがいました。が、そこで目にした光景に背筋が凍り、息がつまりそうになりました。遠くから見えていた黒い影の塊は、銃で撃たれて絶命した猿たちのむれだったのです。

 忠吉の頭の中は真っ白になりました。あの憐れに積まれた猿の死骸の中に、平治が埋もれている姿が目に浮かんだのです。怒りの炎がめらめらと燃え上がり、忠吉の心を憎悪の色に焦がしていきました。
 つぎの瞬間、忠吉は脇目も振らず、人間たちの集団の中に突っ込んでいきました。

 人間たちもすぐに忠吉の存在に気がつきましたが、あまりの速度で突っ込んでくる忠吉の姿をとらえることができず、またたく間にあたりは阿鼻叫喚の地獄絵図。多くの者が引き倒されて噛みつかれたり、するどい爪で引っ掻かれたりしました。

 ひとりの若者が手にしていた銃を構え、ズドンッ! と撃ちました。銃弾は忠吉のうしろ足を撃ち抜きました。忠吉は少しよろめきましたが、すぐに立ち直ると、銃を撃った若者をにらみつけ、バネから弾かれたように飛びかかりました。
 若者は恐怖のあまりあとずさりして、体勢をくずして尻餅をつきました。その隙をのがすまいと、忠吉は若者の咽喉もとめがけて噛みつこうとした刹那、別の方角からふたたび銃声がとどろきました。

 二発目の銃弾は忠吉の右胸あたりに命中しました。忠吉は大きくのけぞり、失速して仰向けに倒れました。

「こ……、こいつだ! このおっきな猿、おらたちの村をなんども襲った猿にちげえねぇ!」

 ひとりの男がそう叫びました。するとほかの男たちも、心配そうに事を見守っていた女たちも、いっせいに忠吉を指差して叫びだしました。

「そうだ、そうだ! こいつにちげえねぇ! おらもおっかあも、こいつになんど襲われたかわかんねぇ!」

 撃ち倒された忠吉は、苦しそうにもがきながら、地面を這いずりました。

「まだ息があるぞ、しぶてえ野郎だ。おい、誰かはやくトドメをささねえか!」

 しかし、多くの者が躊躇し、すぐにおれがと名乗り出る者はいませんでした。忠吉のしぶとさと執念深さは誰もが知るところでしたから、またすぐにでも起き上がって襲いかかってくるのではないかと危惧したのです。

 やがて、息もたえだえに忠吉が起き上がりました。あたりから恐怖のどよめきと叫び声があがりました。忠吉はよろよろとよろめきながら、森の奥へ逃げて行こうとしました。

「おい、はやくトドメをささねえと逃げちまうぞ!」

 どこかからむなしく叫ぶ声があがりましたが、みんな呆気にとられて、ただ去りゆく忠吉の姿を見送るだけです。忠吉は森の暗闇の中へ、しずかに消えて行きました……

 朦朧とする意識の中で、忠吉はもはや自分がどこに立っているのか、どこをさまよっているのかもわかりませんでした。なんども倒れては起き上がり、ふらふらと森の中を歩くうち、さらさらとせせらぐ水の音が聞こえてきました。

 それはねぐらの近くを流れる沢の音だとわかりました。忠吉はなんとかここまで帰ってこれたことに感謝しましたが、もうこれ以上一歩も動くことができず、その場にばったりと倒れてしまいました。すると、誰かがあわてたように近づいてくる気配がします。

「兄さん! 兄さん!」

 それは平治の声でした。忠吉はわが耳を疑いました。

「平治……、おまえ、生きていたのか……」

 忠吉はかすれた声を、喉の奥からしぼり出すようにして言いました。なんとか平治の姿をとらえようと、あちこちに視線を動かしましたが、もう忠吉の目はほとんど見えなくなっていて、ただぼんやりとした影のかたちだけが、忠吉のすぐそばにたたずんでいるのがわかりました。

「人間たちに追い回されて、こわくて森の奥から動けなかったんだ。ああ、 兄さん、なんでこんなことに……」

 平治のすすり泣く声が聞こえてきました。忠吉は平治を叱ってやりたく思いました。
 ――ふん、そんなことでどうする。これからおまえはひとりで生きてゆかねばならぬというのに、情けないやつめ……

 しかしそれを言葉にすることはなく、忠吉はしずかに事切れました。



 ある日、しずかな森の中を、とある寺院の和尚さんが旅路の途中に通っておりますと、道中の茂みの奥に、ぽつねんとたたずむ一体のお地蔵さまが置かれてあるのに気がつきました。

 はて、こんなところに奇怪な、とおもって近寄ってみますと、なんともみすぼらしいぼろぼろに朽ちてしまったお地蔵さまが、人目をさけるように置かれていました。よくよく見ると、一度ばらばらにくずれてしまったものを、無理やりくっつけて修復したような痕跡がありました。しかしなにより気がかりだったのは、そのお地蔵さまのそばに木の実や花などがおそなえしてあったことです。

 いったい誰がこんな辺鄙な場所に置かれているお地蔵さまをお参りしているのだろうと、あたりをうかがっていますと、少し離れた木の上に、一頭の猿がこちらの様子をじっとながめていました。
 その猿はやがてどこかへと去っていきましたが、結局お地蔵さまのなぞは解けないまま、和尚さんはその場をあとにしたのです。

 その後、山を下りた和尚さんは、ふもとの村でふと何気なくその話をしてみますと、村人のひとりが、以前この村は野猿の被害が甚大で、一度山狩りをして猿をたくさん殺めてしまったことがある、と話しました。
 それ以後、野猿は村にまったく寄りつかなくなり、いまでは山中でも猿を見かけることはめずらしいということでした。
 ただ、例のお地蔵さまのことをたずねてみても、誰もその由来を知る者はいませんでした。しかし、村人たちの中には、あのお地蔵さまがあそこに置かれるようになってからぱったりと猿が現れなくなったことから、きっと誰かが猿よけを祈願して置いていったのだろう、と語る者もおったそうです。

 それから和尚さんは、旅路の帰り道に、ふたたび森の中のお地蔵さまのもとへおもむきました。すると、またもや一頭の猿が、お地蔵さまの前にたたずんでいました。以前見かけた猿と同じ猿なのかどうかはわかりませんが、和尚さんがそっと近寄って様子を見ようとしたところ、気配を感じ取った猿は、その姿を見るなりサッと逃げ出してしまいました。

 あらためてお地蔵さまを確認してみますと、そこにはつい最近そなえられたと見える木の実や色とりどりの花が置かれてありました。

 するとやはり、このお地蔵さまはあの猿に所縁があるものにちがいない、と和尚さんは思いました。そしてしばらくお地蔵さまの前で祈りをささげると、和尚さんは去っていきました。

 その後、お地蔵さまと猿がどうなったのか、知る者はいません。
 もしかしたら、今もどこかの森の中に、そのお地蔵さまが名前も所縁も知られぬまま、さびしげにたたずんでいるのかもしれません。


(おわり)