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児童期の自分⑤(養護学校〜小学部③)

地獄から何とか生きて帰ってきました。

いや、一度死んだのだと思っています。

そして、また養護学校へ戻ってきました。

入院生活中の学習

実は入院中、学校の授業も受けていた。
「院内学級」なるものがあったのだ。

そうは言っても、フルで授業がある訳では無い。
一日何コマか授業があるのみのため、当然学年に合わせた学習でも遅れていくものだ。

だが、この授業は楽しかった。
そして、人間界とを繋ぐ一つの手段でもあった。
(その他、音楽が僕をずっと支えてくれていたのですが、それはまた別の機会に)

元の学校へ復帰した

私はそれまで、補装具を使って立位をすることが出来ていた。
だが、それも右足に負担がかけられなくなったため出来なくなった。

ずっと右足を庇わないとならない生活が始まった。
5年生も終わりの頃だった。

授業は、本当によく分からないほど置いていかれていた。
感情が壊れた私は、何をしててもやさぐれていた。

そんな中、担任のN先生は支えてくれていた。
入院中、高圧酸素治療室という本当に大嫌いだった治療があったのだが、担任は一緒に入ってくれた。
「一緒にいるから」と伝えてくれたことが本当に嬉しかった。

思春期へ突入した

家庭の事情もあって、幼少期に入院していた医療型障害児入所施設に入所することになった。
そこから、隣に併設されている養護学校へ通った。

この頃には、学校で皆勤賞や優等生がどうの…など全く気にしていなかった。
もう自分は社会の歯車から外れた感覚でいた。

自分が何なのか、
どうして生きているのか、
何をすべきなのか、
一切分からなかった。

仲間の存在

残念なことに、同学年に仲の良い友達はほとんどいなかった。

この頃は、本当にやさぐれていたこともあったが、「知的障害」というものに対して理解していなかった。
だから、身体障害と知的障害を併せ持つ同級生達にどう接して良いのか分からなかった。
いや、分かろうともしていなかった。
だから、酷いこともたくさん言ったことを覚えている。

そんな中で、仲の良かった仲間は前後の学年に複数人いた。
(今は有名人になったパラリン代表も何人かそこに含まれているが、それはまた別の機会に)

彼らは、すんなりと私を受け入れてくれた。
帰るべき場所があることは、本当に幸せなことだ。

そして、彼らも例外なく思春期だった。
荒れてるヤツもいたし、大人びたヤツもいた。

そんなことを考えていたら、6年生になっていた。

ある意味でそれも地獄だったかも

6年生の記憶は…ほとんど勉強かゲームしてたか、正直大したことはしていなかった。

何故なら、遅れた学習を取り戻すべく大量の宿題を出されていたからだ。

これは、本当にシンドかった。
来る日も来る日もテキスト、テキスト…
発狂したわ。

好きで学習遅れたわけじゃねーんだよ!

って言った記憶もあるなぁ。
当時の私からしたら、ある意味で地獄だった。

でもね、正直言うとその当時も大して勉強してなかった。
今思えば、あんなの大したことない。

むしろ、もっとやれし!!と思う。
甘っちょろかったよ、まだまだ。

足りなかったな、自分の人生を歩むにはまだまだヨチヨチ歩きだったと思う。

そんなこと言ってる間に、小学部は卒業となった。
ほぼエスカレーター式に同じ学校の中学部へ進学することになるのだが…

今回はここまで。

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