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聖書『放蕩息子』と坐禅の精神

放蕩息子

 聖書は旧約聖書、新約聖書を問わず、様々な譬え話を使ってメッセージを伝えています.放蕩息子の譬え話も新約聖書のルカによる福音書の中にあるもので具体的には次のようなものです.

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に『お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に変えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たした時、その地方に酷い飢饉が起って、彼は食べることも困り始めた。それで地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼の畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるイナゴ豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇人に有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください」と』そして、彼はそこをたち、父親の元に行った。ところがまだ遠くに離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った『お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持ってきて、この子に着せてやり、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った『弟さんが帰った来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし兄は父親に言った。『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところがあなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食い潰して帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』

『聖書 新共同訳』 ルカによる福音書15:11-30

譬え話から学べること

この譬え話のポイントは

・どうして真面目な兄よりも放蕩な弟を父は褒めたたえたのか.
・放蕩な弟は何のシンボルなのか.

ということだと思います.

この譬え話の兄は理想的な「兄」であり「息子」であるようにみえます.私たちは、生まれて以来常に何らかの「立場」を与えられて、それを満たそうとして努力して生きています.生まれた瞬間は何も立場も役割もないのですが、次の瞬間には両親の「子ども」という役割が与えれます.兄弟がいれば「弟」「妹」という立場も加わるし、学校に行き始めると「生徒」という役割ももれなくついてきます.そして意識的、無意識的の違いはあるにしても、その役割を果たすことを目的として私達は社会の中で生きています.学校教育では、いかに役割を上手く演じたかが評価されます.大人になれば、家庭では夫や妻、親という役割を演じて、仕事に行けば職場上の役割を演じて過ごしている訳です.社会を回していくという視点ではそれはとても意味のあることで、大切なことです.
 放蕩息子の譬え話の中における「兄」は社会の中で役割を演じて生きている人の譬えのように感じられます.

 しかし、それと同時と社会の中で役割を演じている自分に窮屈さを感じる自分自身を同時に感じたことのある人も多いと思います.
・どこか自分自身が自由に生きられていないような気がする
・どこか自分自身の内から湧いてくる声に耳を傾けていない気がする
・自分自身の望みに忠実ではない気がする
という感覚です.
 放蕩息子の譬え話の中における「弟」は自分のうちから湧いてくる声に素直に従った人の譬えではないでしょうか.

 もう一つのポイントは、父はどうして「弟」を厚遇したのでしょうか.それは、自分の内面の声に耳を傾け、それに忠実に従うのは難しいが、それを弟は生き方として実践したからだと思います.世の中から慣習や規範などに従うべきというプレッシャーをかけられながら、その中で自分のしたい行動を貫き、自分の道を切り拓いていくことへのメッセージだと思います。

"Please call me by my true names"

 フランスのプラムビレッジを作られたベトナム人禅僧のテクナットハン氏の言葉でこのような言葉があります.この一文のメッセージも聖書における放蕩息子の譬えのメッセージと同じだと思います.他人が自分の名前を呼ぶとき『「お父さんの」〜』『「○○会社の」〜』というように役割として自分を差別化していることがしばしばです.そうではなくて、その肩書きを外した生身の人間としての自分に向き合ってほしいという欲望が、それぞれの人のどこかにあると思います.そんな背景でこの言葉が生まれたのではないでしょうか.

坐禅の精神

 坐禅をしている時間は、これまでの文脈でいえば自分の社会的な肩書きが完全に外れて、放蕩息子の「弟」を実践している状況です。坐禅をしているときは、自分の役割や目標といったものから自由になることができます.坐禅とは何か、と言われたときに一言で説明するのは難しいですが、聖書の放蕩息子の譬えやテクナットハン氏の言葉を関連付けながら説明してみました.
 ここで浮かび上がるもう一つの疑問は、坐禅をしている時間は放蕩息子の「弟」であったとしても、坐禅が終わり普段の生活に戻れば「兄」に戻らなければならないのか、という問題です.普段の生活で「弟」を実践するのは簡単ではありません.自分自身の自意識の障壁、周りの他人、社会から受けるプレッシャーなどから自由になるのはすぐには無理だと思います.しかし、無理のない坐禅を相続することで自分の中で「兄」と「弟」の割合が変わってくると思います.
 カナダの映画監督であるグザヴィエ・ドラン氏の『わたしはロランス』という作品の中での主人公ロランスを通して、この問題が如実に描かれているので、ぜひチェックしてみてください.

 「坐禅」というとまず連想するのは仏教であったり、日本の禅宗であったり、お寺の場合が多いと思います.しかし、今回は聖書の譬え話に引きつけて考えることができるように色々な視点から坐禅は説明できるので、先入観にとらわれないで、多くの方に実践してほしいと願っています.







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