聖書『放蕩息子』と坐禅の精神
放蕩息子
聖書は旧約聖書、新約聖書を問わず、様々な譬え話を使ってメッセージを伝えています.放蕩息子の譬え話も新約聖書のルカによる福音書の中にあるもので具体的には次のようなものです.
譬え話から学べること
この譬え話のポイントは
・どうして真面目な兄よりも放蕩な弟を父は褒めたたえたのか.
・放蕩な弟は何のシンボルなのか.
ということだと思います.
この譬え話の兄は理想的な「兄」であり「息子」であるようにみえます.私たちは、生まれて以来常に何らかの「立場」を与えられて、それを満たそうとして努力して生きています.生まれた瞬間は何も立場も役割もないのですが、次の瞬間には両親の「子ども」という役割が与えれます.兄弟がいれば「弟」「妹」という立場も加わるし、学校に行き始めると「生徒」という役割ももれなくついてきます.そして意識的、無意識的の違いはあるにしても、その役割を果たすことを目的として私達は社会の中で生きています.学校教育では、いかに役割を上手く演じたかが評価されます.大人になれば、家庭では夫や妻、親という役割を演じて、仕事に行けば職場上の役割を演じて過ごしている訳です.社会を回していくという視点ではそれはとても意味のあることで、大切なことです.
放蕩息子の譬え話の中における「兄」は社会の中で役割を演じて生きている人の譬えのように感じられます.
しかし、それと同時と社会の中で役割を演じている自分に窮屈さを感じる自分自身を同時に感じたことのある人も多いと思います.
・どこか自分自身が自由に生きられていないような気がする
・どこか自分自身の内から湧いてくる声に耳を傾けていない気がする
・自分自身の望みに忠実ではない気がする
という感覚です.
放蕩息子の譬え話の中における「弟」は自分のうちから湧いてくる声に素直に従った人の譬えではないでしょうか.
もう一つのポイントは、父はどうして「弟」を厚遇したのでしょうか.それは、自分の内面の声に耳を傾け、それに忠実に従うのは難しいが、それを弟は生き方として実践したからだと思います.世の中から慣習や規範などに従うべきというプレッシャーをかけられながら、その中で自分のしたい行動を貫き、自分の道を切り拓いていくことへのメッセージだと思います。
"Please call me by my true names"
フランスのプラムビレッジを作られたベトナム人禅僧のテクナットハン氏の言葉でこのような言葉があります.この一文のメッセージも聖書における放蕩息子の譬えのメッセージと同じだと思います.他人が自分の名前を呼ぶとき『「お父さんの」〜』『「○○会社の」〜』というように役割として自分を差別化していることがしばしばです.そうではなくて、その肩書きを外した生身の人間としての自分に向き合ってほしいという欲望が、それぞれの人のどこかにあると思います.そんな背景でこの言葉が生まれたのではないでしょうか.
坐禅の精神
坐禅をしている時間は、これまでの文脈でいえば自分の社会的な肩書きが完全に外れて、放蕩息子の「弟」を実践している状況です。坐禅をしているときは、自分の役割や目標といったものから自由になることができます.坐禅とは何か、と言われたときに一言で説明するのは難しいですが、聖書の放蕩息子の譬えやテクナットハン氏の言葉を関連付けながら説明してみました.
ここで浮かび上がるもう一つの疑問は、坐禅をしている時間は放蕩息子の「弟」であったとしても、坐禅が終わり普段の生活に戻れば「兄」に戻らなければならないのか、という問題です.普段の生活で「弟」を実践するのは簡単ではありません.自分自身の自意識の障壁、周りの他人、社会から受けるプレッシャーなどから自由になるのはすぐには無理だと思います.しかし、無理のない坐禅を相続することで自分の中で「兄」と「弟」の割合が変わってくると思います.
カナダの映画監督であるグザヴィエ・ドラン氏の『わたしはロランス』という作品の中での主人公ロランスを通して、この問題が如実に描かれているので、ぜひチェックしてみてください.
「坐禅」というとまず連想するのは仏教であったり、日本の禅宗であったり、お寺の場合が多いと思います.しかし、今回は聖書の譬え話に引きつけて考えることができるように色々な視点から坐禅は説明できるので、先入観にとらわれないで、多くの方に実践してほしいと願っています.
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