その写真家は公害病の何を伝えたのか。 映画「MINAMATA ミナマタ」から考えるジャーナリズムの罪と正義

 世界各地で起こる公害病、その一つの水俣病。教科書にも載ってるから自分でも名前くらいは知っている。切り口は色々ある中で、この作品は元ライフ社員の写真家ユージンスミスの視点から描かれている。

 ベースドオントゥルーストーリー。実際のことがベースではあるけど、全てがそうではない。自分はジャーナリズムを扱った映画が好きだが、その映画そのものが事実を脚色してるケースは多々あり、複雑な気持ちになる。

 作品の時系列をおさらいすると、スミスが来日した頃には公害汚染そのものは政府が既に認定しており、裁判の争点は被害者認定が順当であるかどうかや企業が予見ができたことかなどへ移行している。

 この辺がこの映画の難しいところで、スミス氏は決定的な事実をスッパぬいたとかそういうわけではないので、ジャーナリズムものとしては平坦な印象になる。そのせいか、スミス氏が社に潜入するとか写真小屋が放火されるとか会社側が賄賂を渡そうとしたといった創作を入れている。要はなんとなくスミス氏が危険をおかして全てを暴いた風にみえなくもない編集をしていて、これは事実に対し誠実とは言い難い。これは、後述する「発信性」とも絡む論点になる。

 ともかく公害被害は天災ではなく人の活動がもたらすもの。だからそれが起きた時、それを世界に発信する責任は天災の場合より強いと言える。スミス氏は被害者のために何を発信し、被害者認定をめぐる裁判の後押しをしたのか、その「写真」の力と罪についての話でもある。

 舞台である今から50年前は、みんながスマホを持って一億総カメラマンひいては発信者となっている今と違い、「視覚情報」の発信量も接触機会も今より遥かに限られていた。テレビが食い込めなければせいぜい新聞や週刊誌の記事で、それでは被害者の思いまでは伝わらないのだ。言い換えれば、「大ごとなのに大ごとだと伝わらない」。活字ジャーナリズムの限界だ。そんな条件下で、被害者の現状や悔しさを身近に感じてもらうには、何が起こってるか知らしめる決定的なワンショットが必要だった。それが有名な入浴する娘と母のそれなのだろう。

 その写真を撮影するシーンが印象的だった。手や足の位置は被写体にお願いして調整しているし、スミス氏はそれで「完璧だ、美しい」と呟いた。そう、当然だがあの構図は身内でもないものが偶然撮れるものではない。決定的なあの一枚は「創作」なのだ。家族はもともと写真は遠慮してくれと言っていたのを折れて撮らせてもらったわけだが、だからこそスミス氏にとって中途半端ではだめだったのだろう。

 それを批判したいわけじゃない。写真、それも発信されたものには「意図」が介入するのは当然のこと。だから、劇中でスミス氏はこう言った。「写真は撮るものの魂を奪う」と。発信性を高めるためには誠実さと相反する場合もあるのだ。

 また、制作としてもここで不誠実さをひとつ残していく。あの入浴する親子の写真の使用はやめてほしいと親族から言われていて、今回の映画で使ったにあたり、なんと親族への報告は完成後の事後報告だったとのこと。当時も今回も、被写体となった家族に無理強いして使われている写真なのである。

 みんなが撮影端末(ケータイ)、さらには画像加工(スマホ)が当たり前にできるようになったいまでこそ「写真は撮るものの魂を奪う」という言葉が何となく理解できる気がするのだけど、写真というのは「私はこれを発信したかった」と「あなたはどうしてこれを発信した」の無言のコミュニケーションがあってようやく完成するのだと思う。

 今やみんなスマホで気軽に撮って全世界に発信してるけど、50年前、1人の人が写真を発信するまでのプロセスの物語に触れてみるのはいい機会だと思う。私たちが全世界に発信するその視覚情報には、しばしば、正義と罪のカオスが渦巻いている。

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