私達は同じ映画を同じ映画として二度と見ることはできないのか。「過去のない男」

 「過去のない男」 巨匠アキ・カウリスマキ監督による2002年制作の映画。

 私は映画が好きだ。同じ映画を何度も見ることも多い。必然、「初見」という言葉がある。映画でも漫画でもなんでも、最初に鑑賞するときのことだ。何か他の呼び方があると思うのだけど、勉強不足でわからない。ともかく、ネタバレを知らない状態で見るには、記憶を消さない限り一度しかチャンスがない。自分はこの映画の初見を見終わったとき「あなたがこの映画を本当の意味で見ることができるのは今回限りです」と突きつけられたような気がしたのだ。

 以下、映画のあらすじから感想まで。

 フィンランド、ヘルシンキ。ある夜。遠出用と思われる荷物を持った中年の男が列車から降り立った。行く所がないのか夜の公園で眠っていたところ、暴漢に持ち物を奪われ殴打される。一命こそ取り留めたが、彼は記憶を失ってしまった。

 自分のことを知らない男が、おそらくは誰も彼のことを知らない町に放り込まれる物語だが、彼の素性をめぐったサスペンスや重いドラマなどではなく、驚くほど牧歌的に彼の日々の生活をつづっていく。
 
 主人公は事故でそうなったのか元からなのか、物事に動じないタイプだ。そんな主人公の代わりに、視聴者は驚きながら前半を見ることになるだろう。道端でぐだっていた彼を家に誘ってくれた4人一家の家はなんとコンテナ。主人が身なりを整え食事に誘ってくれたかと思えば、そこは炊き出し。それでも奥さんいわく「恵まれてる」らしい。他にも諸々。フィンランドどうなってんだと思いながらあっというまに時間が過ぎる。 

 そんな社会であるにもかかわらず、最初の暴漢以外の登場人物はいい人ばかり。あくどそうな警官も、職安の冷たく思える職員も、実はいい人だし仕事に真剣なだけだ。いわゆる「やさしいせかい」が展開されるのだが、そういった善のオーラを引き寄せているのはこの主人公の人徳と思える、妙な説得力がこの映画の推進力であり鍵と言える。

 この過去のない主人公は、住まいや娯楽や職を得て、イルマという女性と穏やかな恋愛も重ねていく。新しく過去が生まれ、未来へ時間は進む。何も起こらない映画、というのは変かもしれない。何しろ途中でそりゃ結構な事件だろというようなことも起こる。しかし、見てる最中はあまり大事に思えない。「何かが起こる」ということが「未来へ進んでいく」、ひいては「大きな善の流れ」に同化しているような不思議な世界観を堪能できる。

 そして、これは予告映像にもあるのだが、終盤、彼の素性と経緯が明かされる。まだ未見の方はそれを僅かでも知らずに見てほしい。重要なのはその内容ではなく、主人公と同じく視聴者もその時点までは彼の過去を知らず、そしてその時点で知ってしまったということだろう。あとで人物の過去が明らかになるのはありとあらゆる物語にあることだが、それをカタルシスために使っているケースとはまた別の感想がめぐるものだった。

 過去というのは、記憶そのものなのだろうか。この世界に在ったという事象なのだろうか。過去を知るものが誰も居ない地に、記憶をなくしたどり着ければ、またゼロから始められるのだろうか。ゼロとはなんだろうか。過去に何もないことがその条件なのだろうか。「時間は前にしか進まない」とは一家の主人が主人公に言った言葉だが、自分も「過去のない主人公」のまま見ることは、もう二度とかなわないのだろうか。

 私達が記憶を消せないことと、時間が前にしか進まないことは、いつか、いや今もう、私達に命題をつきつけている。


#映画感想文

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?