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組織の利益と、個人の利益が一致する…その中身とは?

 私は上はリーダーから下はいち労働者としてまで、全体を見る立場から一人の働き手としての体験があります。よって組織やグループとしての利益と、ひとりの働き手の利益が必ずしも一致しない事を知っている。

 単純に言って、これは歴史的にずっと命題として横たわっているもの。個人の利益が優先される様な状況になって行けば行くほど、その組織は死んでいくことなる。それは歴史の必然でもあります。

 だからこそ、実は日本の会社組織の様に

組織ありき

という発想は実のところ、論理上は必ずしも間違っている訳ではないのです。

 ただ、常に問題となるのは

表向き組織の利益となっていることが、真の利益たりえているか

なのです。そこが、往々にして実際と乖離する。それによって、栄枯盛衰が起こります。

 まず、個人の利益を現代的な表現で言うと…

クビにならず、待遇が下がることがない

というもの。組織の歴史、においては不変の利害となっています。

 歴史上でも貴族制度という形で長らく維持されてきたのは、安定という名の下で、固定化されていた方がある時期・時点においてまではむしろ合理的。全体の利益にかなっていたからと、私は解釈しています。

 従って時代が下れば下るほど、こうした柔軟性にかける制度設計というものはむしろ害の方が大きくなっていきます。なぜならば、

不特定多数の人たちによって生み出される比重が高くなっていく

から。特定個人や特定の集団という限定された所から、より多くの人たちによる進歩が形成されていく。これが混乱の収束から安定、そして拡大への道筋。これもまた、歴史的に見て成長軌道の原則と言えるでしょう。

 こうしたことから考えると、

安定への志向が強すぎることは拡大へと向かえない

ことにつながる。従って個人単位の利益も増えることなく、結果的に同じか衰退への道へしか立ち行かない。だからこそ、どうしても拡大への道へ行くことになる。

 日本において安定志向が強いのは、日本特有の状況があるからだと私は思っています。それには理由がありますが、今回のテーマと違うので省略します。

 組織と個人の利益が一致することは実のところ非常に困難です。なぜなら、組織だけの利益とは

個人から生み出される利益獲得の最大化

だからです。これは日本のサラリーマンが残業して、会社に身をささげるような人生を見たらすぐわかります。自らが生み出す利益を会社に提供することで自分の人生の保証などを(ある意味引き換えに)受ける訳ですが、それが往々にしてバランスが崩れる。社畜と言われる様な、ゆがんだ依存を生みます。

 これは日本的雇用の崩壊の中身を見たら分かろうというモノ。あれらが崩壊したのも、

1 働き盛りの頃に生み出した利益を受領せず担保する

2 それらは他の人々の福利厚生の原資となる

3 自分が生産性が落ちた(年齢になった)としても、過去の貢献により保護される

4 1-3のサイクルを繰り返す

が機能しなくなったからでは?と日本的組織の内部を見たこともある私からは、そう感じ取れるのです。

 要するにがむしゃらに残業までして懸命に働いても若いころは安月給で我慢する。そのうち、年齢と共にユックリと昇進と昇給をしていき、出世を競う。そして、定年まで勤めあげて退職金をもらい、リタイア。これがある意味、日本的サラリーマン人生のパターンだったでしょう。

 が、それもあくまで会社自体が日本の高度成長期と同じように成長率を維持できての話。先進国に追いつけば

未開拓の地がもうない

のと同じ。その際に必要なことは、

生み出された利益をその都度分配する

事へのシフト。これが、できなかったのです。

 というのも、それを変えようとするとそれまでの年功序列というシステムパターンでやってきた人たちの受けられたはずの利益がが阻害されるから。これが、日本企業が陥っていたジレンマでは?と私は思うのです。

 こうしたことと、社会の変化による若い人たちの価値観の変化も手伝い、退職を選択する人が増えてしまった。それによって、ドンドン崩壊へと向かったのではないでしょうか。

 であるなら、利害が一致することがないのでは?と思われるかもしれませんがさにあらず。唯一不変と言える法則こそ、やはり

生み出した利益は生み出した人にそのまま還元する

なのです。

 それだと生み出せない人にいつまでたっても行き届かないではないか?と思う方もいるでしょう。これも違います。なぜなら

その人が生み出した源泉がすべて自前ではない

からです。これが、組織というものの存在理由でもあるのだから。

 従って、いくら生み出された利益を当人に還元するといってもそうした自分の置かれた環境、という前提条件があるなら全てではない。ここに、組織という形態の必要性や価値が生まれます。

 但し、こうした部分について従来の日本的組織だと

明確な基準が見えてこない

という欠点がありました。実際、私が所属した組織でもこうした評価に対する基準がはっきりと見えていませんでしたし。

 こういうところが、自分の価値創造に対する評価=代価を求める人たちからの非難や喧嘩別れを生む要因になったのでは?と思っています。だからこそ、改めてお互いがキッチリと詰める必要があるだけなのに

従来のやり方や価値観に固執

するせいで不幸な決裂を迎えることになる。

 これは担当している人たち自身を非難するよりも、

その制度設計に対する疑念を抱かない考え方そのもの

に対するフォーカスをすべきだと思います。

 理由は簡単で、要するに

その担当者を批判・非難したところでその時点での担当者に過ぎない

現実があるから。会社と一体化している場合、その人が運用しているというより

あらかじめ決められた職務を”果たして”いるだけ

なのだから。だからこそ、担当者個人に向けてみてもほとんど効果はないでしょう。

 これ以上やると本題から離れるので〆に入りますが(笑)、個人と組織の利害とは対立しやすいモノ。それでいて、折り合いをつけていかねばならない永遠のテーマをはらんでいる。これに対する制度設計、という点で人間の歴史の中でもずっと悩み、苦しんできた履歴があるのですよね。こうした視点で歴史を紐解いてみると、非常に興味深いものがあります。

いぢょー。


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