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自他の間の境界線

 自己と他者との境界線が引けていない人が多くないだろうか……この気付きを今回の記事のテーマにする。
自分の問題でないのに引き受けてしまったり、自分の問題なのに他人に押し付けてしまったりして、眼前で生起した、幾種もの出来事(の特質)を混同する。私の今の職場でも、そういう人を何人か見受ける。また、メディアの流すニュースに触れ、それをまるで自分のことのように受け取り、特定の誰かなどを非難したり攻撃したりする人も、しばしば見聞きする。こういうことは世界中で起きている;(この話題の範疇の程度によっては)私たち人間の日常茶飯事の事柄だと言える。

 もっと明確に私たちは自分自身の問題を見出し、それに集中していたい。これができさえすれば、短絡的ながら、世界は平和になる、という気さえ私は覚える。
境界線を引く作業は、一種の謙虚さや尊重を必要とする── 指向は自己に対し、そして、他者に対してだ。線を引きさえすれば良いと考えていれば、結果として自他の人格を軽視する振舞いにつながるかも知れない。また、自分にも他人にも尊敬の念を持たなければ、不必要に問題を殖やす恐れがある。自分の存在を大切にしていれば、他人のそれをも大切にできる。すると、他者の思いや行いについて勘考するようになり、眼前の問題に不用意に手を触れることをしなくなる。(不用意に触れると、問題を拗らせたり増殖させたりし得る。)問題の所属について冷静に判断する力も養われる。たとえ触れたり手に取ったりしてしまったとしても、速やかに── 時間を置いてからの場合もあるだろう── 手を離したり元の場所に戻したりできる。
放任しておいても穏やかに収まっていくことがこの世界にはありふれている、ということを私たちは案外知らない。しかも、そういう事柄は手に取ったり引き取ったりすることで却って煩わしさが肥大する、ということになかなか意識を及ぼせない。

 思うに、個人間において先のようなことは普遍であるが、国家間においてもやはり普遍だ。この話題は、私たちが多様な関係を求める上、現に要するが故に、実に解りづらい。私たちが抱える、避けられない固有の問題でないかとも思える:まさしくジレンマであるから。
ただ,「解りづらい」とは言え、自分に与えられた任務だけに専念していれば、私たちは自ずと境界線を引けるという気もする。集中は、他者の任務への手出しや目移りを良い意味で阻害する── 私たちを問題の増幅から守ってくれる。いわれたことだけに専念せよ、という訳でないが、取っ掛かりはそこにあるのかも知れない。私たちは何故か、身の回りの問題の根源や所属を見誤りやすい。
その明快な理由については、今の私にはハッキリとしない。

※「吐露ノート」29篇目(2020年7月9日(木)執筆)より

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