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2020/10/10(土)

中学生の頃まで、私はおねしょが止まらなかった。小学生低学年の頃は、ほぼ毎日していたし、高学年になっても毎日ではなかったが、少なくない頻度で繰り返していた。おねしょは止めようと思って止められるものでないが、だからこそ辛いものだ。現代では「夜尿症」と呼び、医学的治療の対象になるものであることは、広く知られるようになった。実は今でも, 2年に1度くらいの頻度で、私はおねしょをしている。が、極めて頻度が少ないため、生活上の支障はまったくといって好いほどない。おねしょは繰り返す頻度や排尿の量によって「夜尿症」と呼ばれるわけだが、今これに悩んでいる人が多いらしいことを知った。その切っ掛けが、目下通読中の青山ゆみこ(2019)『ほんのちょっと当事者』(ミシマ社)である。筆者が嘗てのおねしょにまつわる経験を赤裸々にお書きになっている(第6章)のを拝読して、自身の体験を思い出した次第だ。

母は私がおねしょをして、褒めることこそせざりきも、厳しく叱ることは多くなかった。それは有難いことだったし、当時の私にとって些か幸いなことだった。おねしょに悩んだ経験のない者からすれば、さほど気に留めない話題かも知れない。しかし、おねしょがつづき今密かに困っていたり、とりわけ悩んでいる人たちからすれば、かなり深刻なことである。睡眠時の排尿量が多く、一夜に幾度も起こるようであれば、専門科に掛かる必要があるだろう。ここでは、それこそ「ほんのちょっと当事者」を慮ってみる心遣いを求めたい。おねしょをやめられないことが、己や子を責めることの材料とならぬことが切に望まれる。

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どう生きているか/生きてきたか/生きていくか……それはあらゆる所作から滲み出るものであり、多少粉飾はできても、最後まで隠し通すことのできないものである。私は音楽(特に、歌の伴うそれ)が好きだから、歌が上手いとはどういうことかなどをよく考えるが— 大衆メディアの繰り出す諸戦法に毒されているのかも知れない、結局それについても、技術的なことより先に挙げられる、第一の点は、やはり歌い手の”人格”であったり”人間性”なのである。

今朝、とあるYouTuberの動画を幾つか拝見していたら、誠に恐れながら、人間性の低さを窺わせる内容の動画が随分と持て囃されているのを知り、私は強く違和感を持った。自分と向き合うことから逃れるために、人々から承認を求める行為(心理学者・アブラハム=マズローの言説を参照することができる。)に私たちは走りやすいが、これに労力を割いていると、自分と向き合う時間を取れなくなっていくわけだ。数字や他者との比較から得られる自信は、却って自身の心を脆くしていく。人の関心を惹くアイデアを実現できる力は有意義な力である一方、それが高まっていくに連れて、世間には近接し、自身の精神は脆弱化してゆく。

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