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2020/09/28(月)

人を信頼するとは、極端にいって、すべての関係の基礎であり、起点である。そして、その信頼することの、具体的な切っ掛けとなる動作が、正に挨拶である。ただここで私は,「だから、挨拶は大事なのだ」と説教するつもりはなく、挨拶の意義を、今一度考える機会について提案したいのだ。僅かであっても、信頼する心を持たないのなら、眼前の相手との関係は始まりを見ない。これを逆に言えば:信頼し切っている関係— 信頼が尽くされた関係の良否はここでは差し置こう— においては、挨拶に積極的な意味はない。形式的な、声の掛け合いか、存在の確認の動作に落着する。相手のことがよく分かっている、長年の関係であれば、特段の挨拶なしに、いきなり本題に入って遣取りできる。私たちに固有の社会性に着眼するならば、他者とつながることが私たちを理性的主体として根本的に条件付けるから、起点である挨拶を軽視することはできない。軽視すれば信じることに正対する「不信」を募らせるに帰する。当然ながら、状況的に戦地において、軍人と軍人とのあいだに挨拶はない— 不信の極みにおいて、私たちは殺し合うのかも知れない。しかし、だからといって、挨拶のない(、というよりも省く)、良好な関係というのもまた、存在はしよう。先述したように、随分と深い信頼関係にある人たちにとって、挨拶は特段必要ない。「愛している」といわなくても、愛があらゆる所作から双方向に(滲み出るように)伝わるのと似ているだろうか。例えば、挨拶の不要な、愛し合う夫婦は、他方の目を、善意を以て見る— 時間の長短はあろうが。一方で軍人は、疑いを以て他方の目を見る— ときとして銃口を不断に向けながら。信頼の不足感は、挨拶の量や質に起因するのかも知れぬ。後者について、挨拶の仕方も、文化的文脈を通せば、実に多様であると言える。疑いを取り払う……このことに、挨拶の効能を見ることができるかも知れない。「こんにちは」と一瞬でも微笑んで相手と目を合わせるだけで、不思議にも、忽(たちま)ちそこに関係というものが生ずる。いわゆる、心不在の挨拶というのも、挨拶時の目の様子だけで、容易に解されてしまうものである。「挨拶は大事ヨ」と子どもに諭す前に、なぜ、またどのように挨拶は大事なのか、一考することができるだろうか。挨拶が効果を発揮し得るシチュエーションについて、できる限り想定し、その効能について考察することができるだろうか。ひょっとしたら、そこから私たちの特質について、何か言えることを発見できることなど、あるだろうか。愛に溢れた人と会うときは、ほぼ決して、形式的な挨拶には陥らない。

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