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科学と宗教とは対立するものではない

2020/11/11(水)の日記

これまで、科学と宗教との両者は対照的な営為である、と私はずっと考えてきた。しかし近年、科学とは人の信仰することの結果として生じた営為なのでないか、と思うようになった。したがって科学の誕生と進展について、宗教に深く関係している、と今時は捉えている。

一般的に、西洋における古典的な科学には神学が含まれるものであり、すると、神を信仰するか預言者を信奉し、その存在に少しでも接近したいという探究心や好奇心が、科学を発展させる、一つの出発点だったと言えまいか。そして、ここでいう探究心や好奇心とは、取りも直さず”敬虔な信仰心”であったのではないか。

おおよそ2016、7、8年の内に、私は精神の沈下に見舞われ、自身の世界観について驚くほど大きな転換を経た。自責を酷く繰り返す,〈人生の底〉のような気分を味わっていた、その時期までは、唯物論やニヒリズムが私の世界観の底流にあった。けれども、希死念慮に苛まれる日々の末に訪れたのは、宗教の力を求策する直感だったのである。

今の私は,「自分は今や幸福であること」,「これからの人生が(何が起ころうとも)楽しみで仕方ないこと」を、日常的に感ずるようになっている。それが善きことか悪しきことか、私には知れない。しかし、従前よりずっと、生に積極的になれている自分は、誇りに思うし好きだ。それが社会的に好影響を他に及ぼすことならば、大河を流れる一滴の生命として、僅かながらも意義を持つような気はしている。

蓋し人生とは、清流にもなり濁流にもなり得る、何か複雑な法則性を持つように見ゆる大河に、生来的に委ねられているものであり、それ故に、生や種や命などについて心配することは、一切無用であると思われるのだ。

神とは何でしょうか……神の造り給いし、我ら人間や自然とは何でしょうか……そういった根源的問いに、自ら持ち得る限りの力を尽くし究明しようとした歩みが科学である— としたならば、科学の土台には宗教があるといって過言にはならぬかも知れない。

20世紀よりアメリカを中心に展開された/されている反進化論運動は、ある意味、時が必然として用意した出来事である、と私は思っている。どちらが正しい、などと論じることほど、不毛なことはなかろう。ひょっとすると、こうした出来事が、科学と宗教とを対立させる働きをしたのかも知れない— まるで、子が親と喧嘩するようなものの如く。

ここでは有神論とか無神論に立ち入るつもりはないが、大いなる力か何かを希求する思念は、おそらく人間の一種の条件であって、その具現として科学とか宗教が発展してきたと考えることは、一定の妥当性を持つと私は思う。きっとどこまで行っても、私たちは決定的に神を論証したり反証したりすることはできないだろう。けれども、科学とか宗教とかいう、人間ならでは施せない営みは、内実の多少の変調はあれど、これからも確実に継承されていくだろう。自身の限界を悟るが為に、探究心や好奇心は生まれるものだとすれば、その限界の先にある何かを飽きずに求めていくことに、科学や宗教の実質があるとの認識を、今後の私たちは持続可能性において欠かしてはならないのではないだろうか。

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