見出し画像

2020/10/21(水)

私には日頃、少々の強迫症状を自覚することがあり— 例えば、物の位置が飽きずに細かく気になったり、遭遇する確率の低い災難に見舞われるのでないかと俄に恐怖に襲われたりする— 大抵そのときは冷静になれるけれど、そのような、ある意味、繊細な気質を備えている。その一面が、私自身の人格形成にとって重大であることは、近年ずっと隠し様の無いことであると、自認するに至った。善くも悪くも、自分に大きな影響を与えている気質というのは、自認することでこそ、ようやくその統制が可能になる。それはつまり、自分を知るということの他なく、まさしく”自分を生きる”ことへとつながっていく。

人間それ自体にも、やはり同様に、人間を人間として条件付ける特質たるものが、好作用と悪作用とをそれ自身に及ぼしていることは、理知的な考察を通してみれば推量できる。ひょっとすると、そのことの自認をして、ようやく”生の開始”であるといって過言ではないかも知れない。

誰にだってきっと,「私って……こういうところあるんだよね」と、年を経る内に悟るものがあるだろう。それは奇しくも、当人を(立派に)特徴付けるものであるし、また個性を授けてくれるものでもある。極端な話それで、複雑な因果を引き起こし、早死にすることになるかも知れないし、ビジネスにおいて大成功を果たすか、はたまた、投機に躍起になり自ら身を滅ぼすことになるかも知れない。

「あの人らしいよね」と言える一面とは、面白いことに、周囲に愛らしさを感じさせるものであり得る。だからこそ……だろうか— 自ずと先天性を帯びているだろうし、同時に後天性も帯びているだろう。ときに、関係する者に好意を呼び起こすことだってあろう。そうした一面について、自分の好きな一面だと明言できれば、およそ実に幸運なことだが、概して望ましいのは、自分について深くよく知り丸ごと受け入れてしまうことだ。それができずに人生を終える人は、決して少なくないだろう。思うに、受け入れられない自分の姿というのは、原則として後天的要因を持っている。個人的には、私たちは生まれる前から、自らその存在を”抱き締められる”素質を欠いているとは、到底思えない。

話は最初に戻るが— 私に表れる強迫症状は、心身の調子が優れないときなどに、ほぼ決まって出る。今は一人暮らしだが、今後もし同棲する御方が現れたとすれば、上手くやっていけるのかな……などと偶に心配になる;直接関係ないことだが、オナラを自由にこけなくなるかな……などとも(お腹が元々弱い体質で、些細なことで胃腸の調子がよく崩れる。)。

日記を書いているつもりだが、私の場合、内容が毎回観念的になる。私はそれが好きだから結構なのだが、これもまた、思考における、私の気質だと言えるだろう。しかしながら、これを誇りに思うことこそ、きっと、自尊の仕方の一つではないか。私は、自分を尊ぶ素質とは、生まれながらにして、誰もが備えているものである、との期待を持つ。同時に、磨くことのできるスキルである、とも見ている。私はそこに、生き甲斐の生まれ育つ土壌があると思っている。

ここから先は

0字

¥ 120

サポートいただきました分は、私の夢である「世界の恒久平和の実現」のため、大切に使わせていただく所存です。私は日々、夢に向かって一歩ずつ── ときに半歩ずつ── 邁進しています。