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2020/10/25(日)

女性だったら好かったかなア

自分が女だったら好かったかなア、と思うことがある。私はよくカワイイ女性に憧れて, "女性らしさ”を身に纏(まと)ってみたいと感じることがある。ただ、性自認は生物学的にいう男性であるし、恋愛対象は”女性らしさ”の感じられる人で、多くは生物学的に— 医学的に、という方がより現実的であるかも知れない— 女性であると見做される人である。これまで私が好きになってきた人は押し並べて、自他ともに女性であると認める方々だった。

特に性転換などを試みて女性を目指そうと思うことはなく、私はこのまま男性として生きていこうと思っている。その上で、街中などでカワイイ女性を見掛けると、どうしても目線が向いてしまうときが多くて、それは男性としての目線であれば、同時に人としての目線でもある。男性として生きていくと決めている以上, "女性らしさ"を身に付けることは決して容易でない。生物学的ないし医学的なというより、そこにはジェンダーによる困難さが示されている。

「カワイイ」というのはよく考えてみると、取扱いが厄介な観念であり、決して男性に限られず、女性にも気受けが好ましいものである— 寧ろ、女性からの方がより評判は好いかも知れない。少なくとも自覚からは,「カワイイな」と思う女性に、どちらかというと、人として羨望するが故に見詰めたくなる心理が働くと感じている。また,「カワイイな」という思いは、女性だけでなく、赤ん坊(同性のそれを含む。)や生物でないものに対してさえ抱く。それは、多くの人にあることではないだろうか。また、例えばアセクシュアルの方が,「カワイイな」と日常においてどのくらい思うことがあるのかは、当事者でもなければ直接お話を伺ったこともないので予断し兼ねるが、この件については性的性質とはさほど関係ないことだろう、という気もする。

私からすると— 飽くまで外見上の話としてであるが— カワイイ女性は、堂々と街中を歩く資格を備えているように見えるため、しばしば羨ましさを覚えるのである。自分もそのような格好で堂々と歩けたら、どれほど好いかと。しかし、堂々と歩くということなら、男性としても充分に可能であり、ファッションセンスを磨いて、ときに高級なジャケットやシューズ、アクセサリーや香水を身に付ければ、きっと外見上の自信は、比較的容易に獲得できる。「カワイイ」ものは、私にとって一種のファッションとして映り、自分らしくあるための、価値あるアイテムであることを、積極的に認めることができる。

加えて記しておきたいことは、私には男性として、もしくは女性として憧れる人が見当たらないということである。人として憧れる、という人は幾らかいる。だが、性(的なこと)を伴って羨望を抱くという方は、少なくとも今の私にはいない。冒頭に「カワイイ女性に憧れる」と述べたが、それは「カワイイ」と形容できる人は大抵が女性であるということから至った表現である。カワイクあることは、何故か、社会的に、主として女性であることが認められた者にしか許されない。これはジェンダーに深く係る事柄であり、私としては実に面倒で、残念なことですらある。私自身にある「カワイクありたい」という思いは、往々にして、社会的には抹消される結末を数え切れないほど経てきた。

日常生活では、カラオケに行って「男性 1名」と、例えば受け取るレシートに記載されていたり、アンケートや会員登録の際に,「男性」という項目を選択しなければならなかったりする— 近頃は「その他」という選択肢を用意している場面を見掛けるようになった。その度に、私は小さなモヤモヤを感じる。そしておそらく、次第に胸中に鬱積している。「私は男性でしょうか。」との問いには,「はい、男性です。しかし、」といいたくなる。私は女性に憧れるけれども、女性になろうとまで思わず、男性として生きていこうと思っている。好きになるのも、性的興奮を覚える対象も女性である。けれども、男性であるという自覚を持って生きることには、どうにも気色悪い違和感を覚えてならない。だからなのかは判然とせぬが、私は男性としてでなく、人として品格を高めたい、と平生強く思っている。ただこの先も、今も抱きつづける違和感が払拭されることは、積極的には期待できないだろう。

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