見出し画像

2020/10/06(火)

感謝することが大切である、と巷間ではよくいわれる。これに従うように,「ありがとう」とか「〜させていただきまして」といった文句が唱えられているのを、よく耳にされないだろうか。しかし私は、どうもこうした表現に違和感を覚える。

感謝に限らず、あらゆる気持は本来、溢れそうになる想いに根拠を有していなければならない。感謝が大切であるとか、自己啓発系の書籍でしばしばいわれることを、そのまま無批判に実践しようとする人々によって、感謝が行為として昨今は形骸化しているのだ。

「ありがとう」といわれ嫌に感じる人はいない、などと説かれることもあるが、文脈によってはその限りでないのでないか。少なくとも、気持の込められ切っていない「ありがとう」をいわれても、それは形式的な感謝にしかならず、これには乾いた返事をするのが関の山だろう。

感謝は、本当に相手に対しその気持が、突沸のように起こってきたときにだけするのが善い。そのときの「ありがとう」は、その、たった一言であっても、強烈に人に伝わるものだ。形式的な感謝とは、いかにも、純然たる惰性である。

むやみやたら媚びたり諂(へつら)ったりするのは、その人への印象も下げてしまう。それを甘受するのであれば一向に構わないが、妥協できないならば、言葉はできる限り、気持に根を(深く)生やすべきだ。

気持の伴わない感謝とは、まるで中身のない鶏卵である。ひょっとしたら、現下の日本には,「感謝しなければならない」という、目に見えぬ圧力が生じているのかも知れない。日本社会とは考えるに、文脈依存度の高い文化を基礎とするが故、同調圧力が善くも悪くも生まれやすい。

「ありがとう」とか「〜させていただきまして」といった文句は一見キレイで、撥水加工の施された製品のように汚れにくい。しかし、その使いやすさ故に、思考を鈍らせる性質を持っており、人前で用いる際には注意が必要である。何でもない言葉でも、気持の込められたものは、先述の通り、往々にして強力である。一方、整えられた、あるいは仰々しい言葉でも、気持に欠くものは、無力となり得る。

言葉とは実に面白いもので、使い手によって、同じものでも、宿る力の大小が随分と違ってくるのである。次のことは、何においても言えることだろうが:言葉、すなわちスキルを磨くことは能力強化にとって重要なことである;しかしそれ以前に、人格を向上させることが最たることであることは、何よりも忘れてならないのではないだろうか。

ここから先は

0字

¥ 120

サポートいただきました分は、私の夢である「世界の恒久平和の実現」のため、大切に使わせていただく所存です。私は日々、夢に向かって一歩ずつ── ときに半歩ずつ── 邁進しています。