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2020/10/08(木)

私は幾度か、現代演劇に挑戦したことがある。そのときの仲間が、近く次の作品に出演する:東区市民劇団 座・未来公演『みなとトンネルを抜けると… 〜いつか笑える日のために〜』(作・演出:池田真一)。再来月の第1週の土日に、全3回公演される。今からこれが楽しみである;仲間の活躍を見るのは実にワクワクするし、演劇を始めとする舞台芸術に触れられるのはいつだってウキウキする。フライヤーの裏面には,「各回の客席数を定員の50%といたします。」との注意書きがある— 早めにチケットを取っておきたい。

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この頃の、種々の文化的傾向は、どうも「自己肯定感」というキーワードにある気がしてならない;「このダメな(ところだらけの)自分を、どう認めてやるか」といったことをテーマとする書籍や楽曲を、よく目にし耳にしはしないか。現に私も、そうしたテーマの楽曲を制作しているところだが、これには随分と時代性が伴っている感を覚える。というのは、自己否定を抑制し、自己肯定を向上させることは、今の時代の(人々の)要請として、経済・社会的思想を一つの背景に、広くコンセンサスを得始めているようだからである。それは西洋文化圏を中心に、世界的に文化的な傾向として現出しているように見える— アメリカでも、自尊心に焦点を当てた作品が、この頃よく流行していると聞く。

人間は長く、帰属意識を心理的支柱の一つに、コミュニティを形成し共助することを、生の営みの手法としてきた。しかしそれは、資本主義や個人主義といった、相対的優位の思想の登場や台頭、具現化などによって、人間は遠い、見えぬ相手との遣取りに、日常的に迫られるようになった— 資本主義や個人主義は同列に語れるものでは恐らくなかろうが、これらの萌芽を数百年前より今日の程までに育ててきたのは紛れもなく私たち自身である。そうした思想は、人間の帰属意識を世界各地(とりわけ西洋文化圏)で希薄化する効果を、広く及ぼした。

原始的な生活を営んでいた人間に、自己肯定について意識させる機会など、どの程度あったろうか。「私たちには自己肯定が足りない。自己否定に偏り過ぎている」と初めに指摘したのは、心理学か精神医学なのだろうか。何れにしても、それに呼応するようにして、自分という存在を如何に正当に認めるかが、形而上学的な主題となり、昨今の文化的傾向を作り出している、と見ることができるかも知れない。ここまでは実に観念的な話で、地に足着いた如く感じられぬが、そこに普遍性はあるのかというのが、実は、この頃最も気になっている点である。「自分を愛してあげてね」というメッセージは尤もらしいし、今の時代の人々にはきっと刺さりやすい。しかしそうしたことは、遠く時代を隔てた人々にも、同様に胸に刺さるのだろうか。どちらかというと、時代性に偏ったメッセージなのでないだろうか。それは強烈な想いであると信じてきた私だが、この頃俄に少々の疑いを抱き始めている。

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ところで先日、とある駅のホームで次のキャッチコピーを見た:いつもの場所で、いつもは変わる。それを車窓から偶々眺めて、つくづく「そうだな」と思った。たかだか、飲料品の自動販売機の側面にあったキャッチコピーに過ぎない。しかし、何かそのときの私を強く納得させるものがあった。ものすごく久しぶりに、キャッチコピーに心で深く頷いた気がする。当該の自販機には「acure」「アキュア」とあった(2語のあいだは改行されていたような、単なる空白があっただけのような……詳しい覚えがなく忝(かたじけな)い)。選び採られ組み合わされた言葉たちに力の備わっているのが、説得力を持つキャッチコピーとなるだろうが, ”いつも”は、確かに, ”いつも”のなかで、大抵変化に遭うものだ。日常はやはり日常のなかにあるものであり、それが何らかの反応を示すときもまた、日常のなかである。そうして異質となった「日常」が、我々の意識階層を上下することはあっても、天から煌びやかなプレゼントが降るように日常が一変することは誠に稀である— 1本の飲料品が、如何に我々の日常を変様させてくれるかは、私には到底知れないが。

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