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2020/10/22(木)

単発の仕事を断って罪悪感を抱く

先日、ある派遣会社にスタッフとして登録し、物流の仕事を単発で任せてもらった。当該業界は顕著な人材不足のため、現場には至る所に老若男女が配置され、私も未熟ながらそのなかに混じったのだが、相当な肉体労働であるから、荷物や周囲の労働者に気を大して遣うこともできず、しんどい1日がジンワリと過ぎていった。実は今日、その派遣元から電話があり、また同じ仕事を入れられるとの案内を受けた。が、既に先約で埋まっているとかいって断ってしまった。電話の担当者は「あ、この人もか……」といったような反応を示し、儀礼的に切断した。

どんな内容でも仕事を任せてもらうことは、誠に尊いことだと思う。善悪は別として、私は、仕事を断ったり選んだりすることはまったく以て恥ずべきことであり、そうすることは出過ぎた真似であるとさえ思う。けれども、誰にだって適性というものがある訳で、自分の能力を最も効率良く発揮できる仕事にこそ、本来は当たるべきなのだ。頭ではそうであると認めているのに、何故か「いけないことをしてしまった」と感じてしまっている節が、私の思考の内にあるようだ。これは個人的課題の一つである。

仕事を断ることや選ぶことは、決して悪いことではない。あの現場へ行ってまた数々の荷物を立ちっ放しで振り分けるのはもうイヤだし、物流倉庫で荷分けを担当した際は、終始、かなりしんどかったし、現に私には向いていないと思った— たかだか数日の勤務で何が分かる、という向きもあろう。嫌ならやらなくて好い;生活だって、ギリギリながらも、何とか送っていける。それなのに、何故か、せっかくの仕事を断ってしまったということに、モヤっとした、淡い罪悪感がある。

私は、お叱りや励ましの言葉を欲している訳では毛頭なく、こうした、日常の出来事を通し, ”正しく生きる”ことについて、他者と共に考えたいのだ。嫌なら遠ざけて好いということの適切さとは、一体どこにあるのか。仮にそれが十全の適切さを備えていたとしても、それを心の底から実感できないときは何故あるのか。幼少の頃から抱える道徳的課題が、私の胸の奥でいつまでも燻っている。

自ら選択することには、社会性が付きまとっている— すなわち、責任が伴っている。実際は逐一、当該の選択の結果が(広義における)社会にどういう影響を及ぼすかなどは考えていられないが、自他双方にとって有意義な選択を施すことは、頗る骨の折れることだ。他者と対話する機会を、暫く私は極端に減らしてしまっている— 意図的でなく偶発のことです— が、今日のことはひょっとしたら、自己肯定とか自尊とかに関わることかも知れず、であれば、自己対話ではなく他者との対話がある程度、重要な意味を持ち得るものと思われるのである。私は、今節は自身と向き合う大切な時節だと心得ているが、いつまでもそれがつづくなどとは思いたくない。でも、その気力を、長く愛して止まない芸術こそが与えてくれるのだと、楽観できる認識は身に付けている(つもりだ)。

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