2020/09/27(日)

「生きづらさ」とは、昨今の私の一つのキーワードである。その様態はさまざまに形容されよう。「苦しい」,「虚しい」,「しんどい」,「消えたい」,「死にたい」など……嘗て私の鬱に強襲された時期を振り返ると、まさしく「死にたい」日々— 長く長く永遠につづくとさえ思えた— であったが、今では寧ろ愛おしい時期である。これは極めて主観的な表現であって、決して鬱に苛まれることについて一般化した表現を定めようとするのでない。しかし、ときとして鬱を私たちに生じさせる、あの「生きづらさ」というヤッコには、私は厳然と対するべきであると思う。仕方はまったく一様ではない— 思いやりを持ったり、徹底的に突き放そう/別れようとしたり、抱き締めてやったり……最終的には「愛おしい」と思えたら素敵かも知れぬ。私は少なくとも,「生きづらさ」に出遭わない社会こそ、より平和に近い、全(まった)い社会であると考える。そのためにできることを、日々丁寧に思案したい。経験則から,「生きづらさ」に向き合うには、芸術が本当に心強いと感じている。芸術を通して、私たちが挙って、あの「生きづらさ」を見下ろすまで精神的に発展するに至る日を、想像だにせぬほど遠くだろうとも、私は懲りずに実践を止(や)めまい。

やはり……もう少し(今日の日記を)書きたい。昨今,「毒親」という語が用いられるシーンが増えたでないだろうか。私の母親も、まさしくそれである。今も誠に有難いことに健在であるから、大っぴらに詳述はせぬが、例えば「毒母」という存在は、決して変えることができない— 少なくとも、変えることができないと心得ていた方が好い。結局、自分を除く人様は押し並べて(強引に)変えることはできない存在だ。自然も然り。何が何でも変えてやろうと思う輩は、ほぼ決まって根深い自己問題を抱えている、且つ長く未解決のまま;変えられるのは自分だけである。考え方、想い方、感じ方ひとつ修正できるだけで、次の瞬間から自己愛(の原型)が萌芽する。自己愛の病的な欠如が、他人をば自分と同等に、場合によっては自分以上に歪めていく。そうした者が人様の親となることは、本来は望ましくないように思われるが、それもきっと、大局観からすれば、絶対的に必要なことなのだろう。無論、確証は提示できぬが、人類社会のダイナミックスが大々的に関与しているだろうことは信じられよう。自分の胸に静かに手を当て、自分を見詰める日々が、おそらく死ぬまでつづく。

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