筆67 人生に楽しみがない(仮)
2020/10/02(金)
楽しみがないことほど、人生にとって詰まらないことはない。その場合、日々はほとんど何でもないときであり、張合いを見出すことは難しい。私たちは、何のために生きているのか、などと俄か哲学者になって、路頭に迷いかねない。それでも、多数派の生き様を模倣することで、何とかして明日は迎えられる。私が好きなオフコースの初期の頃の歌に「水曜日の午後」(1973年)というのがあって、その歌詞のなかに次の一節がある:
夢は人に活力を与える。しかし決して、ないと生きていけないものではない— 食物や住処、金銭などとは異質である。夢を持っていると、寧ろ、それが仇となり、苦悩を強いられることだってある。他方で、夢がないとまるで自分が空洞であるかのように思われて、掛替えのない生が仕事の手段と化し、精力さえ衰えていくこともある。何が善くて何が悪いなど、判然とした論じ方は到底できまい。けれども、夢を持つことは、人として生き生きすることに直結しているということは、世間の何れの法則に照らしても、どうやら確からしい。では、人生の楽しみを発見するか否かは、すべて運任せのことだろうか。これは証明するよりも、反証する方がどちらかと言えば容易な気がする。荘子の文句から井の中の蛙(かわず)大海を知らずというが、私たちが思っている以上に、世界はずっと広大である。そこに出遭わずに楽しみがないことを嘆いたとしたら、これは愚行であるという他ない。そのことについて種々の方途を以て伝えることが、教育の姿であってほしいものだ。物理学では、中性子とか電子とかを研究することが、天文学のように、驚くほど巨大な対象を研究することと、相互的に密接するように、身近なことを飽くなく観察することによって、実は「大海」を推察できる。それが切掛けとなって、自分の進むにふさわしい、新しい道が見えたり開けたりすることが、往々にしてあるのである。何事も、可能性を孕んでいる。いつかに関わらず、それを体感するだけで、世界すべてが虹色で輝く場所に映るから、人は夜を忍び朝を待つ力に与ることが、元来赦されているのである。
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