Vol.25 「学ぶ」とは?

 教師があまりにも教えることを意識しすぎるとき、指導の問い直しがおろそかになることがあるように思われる。明らかに強い使命感によるのだが、教師の側にあることを一方的に教えて、学ばせたつもりになっていることがある。学ばせたいことが身に付く兆しがあるのに見えないことがある。何を学んだかは子供を見れば分かるのに、言葉で確認しなければ安心できないときがある。

嶋野道弘(1996),生活科の子供論ー1人1人が輝いて見えますかー P99

 生活科でも、他の教科でも「子ども主体」を大切にします。自分が「子ども主体」を大切にしているのは、「子どもが学ぶ」ということとか、「子どもの学びになる」ということを目指しているからです。一人ひとりにとってよりよい学びがあることが大切だと思っています。

 「学ぶ」ということを考えたとき、主体がその人であることが前提であると思っています。これはただ単に「教える人/教えられる人」といった分け方ではないです。もちろん、子どもたちとともに資料を見て、これまでの経験とのズレを見つけ、違和感を感じ、これから深く考えていこうとする授業もありますし、子どもが自然の中で遊ぶことを通して、生き物のおもしろさを見つけ、ふと「これはなんだろう」と立ち止まり、知りたくなるみたいなときもあります。

 決して、子どもだけで問いが生まれること、子どもが問いを立てることだけが「子ども主体」というわけではないと思っています。子どもがあれこれ試行錯誤している、試行錯誤することができるような場を教師としてどうつくっていくかが大切なんだろうなと思っています。

 そんなに教えようと力まないことだ。子供のもっている不思議や驚き、美意識や感動、面白さや楽しさに共感し、それを増幅することに力を入れることが大切だ。子供は、面白くって、楽しくって、自ずと調べたくなる。教師は、さらに、そのことに力を貸すべきである。

嶋野道弘(1996),生活科の子供論ー1人1人が輝いて見えますかー P103

 ただ、「子ども主体」を意識していても教師としての「教えたい!」「理解させたい!」というおもいが強く出過ぎるときがあります。どうしても、ここだけは押さえておきたいみたいな気持ちが前面に出てきてしまいます。

 ですが、最近は少しずつそういった気持ちを抑えることができるようになってきました。それは、一人ひとりを見取ることに時間をかけるようになったからだと思います。一人ひとりを丁寧に見取ることで「この子はまだ学びの過程にいるんじゃないか」と捉えることができるようになり「教える以外にも方法がありそうだ」と考えるようになりました。

 支援による教育とは、指導という名の下に、教師の側にあることを一方的に教えて覚えさせるというのではない。指導に当たっては、まず一人ひとりの子供の言動をよく聞き分け、聞き届け、見分け、見届けて、その子に即した適切なかかわり方をするという構えに立つことである。

嶋野道弘(1996),生活科の子供論ー1人1人が輝いて見えますかー P116

 この嶋野先生の言葉、まだぼんやりともわかっていません。「聞き届け」とは?これが一番想像がつきません。これらの言葉を丁寧に目の前の子どもたちと照らし合わせていくことで自分自身の成長に繋がりそうだと思いました。

…今度、直接聴いてみようかな。いや、自分で考える方がいいな。…

 子供は常にさまざまな思いや願いをもっている。それが見える。先生はその子供の心もちに応える出場を心得ている。出すぎてはいけない。かといって、出ないのではない。じつにいい按配である。よい支援を得て、子供が自ら育っていく。指導の究極である。

嶋野道弘(1996),生活科の子供論ー1人1人が輝いて見えますかー P117

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