子どもたちの「今ここ」を出発点にしよう

授業とは、子どもたちの「今ここ」を出発点に支援していくものだと考えています。
教師が教えたい内容を教えるのではなく、目の前の子どもたちが、今、何ができて、これから何ができるようになりたいと思っているのか、また、どんなことに疑問を感じていて、どのようにして解決したいと思っているのかを見取り、そこを出発点として、授業をデザインしていくことが大切なのだと思います。
そして、その見取りが甘ければ、目の前の子どもたちの思考に合わせて授業を再構成していくことがあると思っています。

平野朝久氏は、「子どもの主体的な追究と学びを実現する授業の要件(1)」で次のように述べています。
「指導計画の作成も教材研究も授業展開も、子どもに何をどのようにさせようかということを検討する前に、まずは一人ひとりの子どもが、今何をどのように考え、感じ、どうしようとしているのか、どうしたいのか、どういうことで困っているのか、そしてどのように追究し、学ぶのか等々の事実を明らかにして、常にそれらに基づく必要がある。このように目の前の子どもの事実から教師の子どもへの指導、支援のあり方が決まるのであり、したがって、教師が子どもにどのように指導し、支援するかについて意思決定をする度に、子どもの事実に立ち返ることが必要となる。」
「見取りの要は、子どもに共感し、肯定的にその事実(見取りにおいては子どもの内面の事実)を理解するということである。」
また、
齊藤慎一氏は、「子どもの事実に向き合う」で、次のように述べています。
「平野(2017)は問題解決に向けての思考を進める過程には「学んだ者の理論と学ぶ者の理論」があるとしています。学んだ者、つまりそのことを既に知識として知っている者の思考の過程は「無駄がなく、整理され、しばしば合理的」です。これに対して、学ぶ者の理論、すなわち、そのことについてまだ知らない者の思考の過程は前進したり停滞したり、後戻りしたりしながら最終的に必要な理解を獲得していきます。私はこの試行錯誤する過程の中で、「あれ?上手くいかなかったな。どうしてだろう。次はこうしてみようかな。」「もしかしたら、こっちのやり方の方がいいんじゃないかな。」など、主体的に考え、より自分に適した方法で解決する力が高まると考えています。また、このような過程を歩むからこそ友達と協力する必然が生まれ、協働性が高まると考えられます。」
さらに、
鹿毛雅治氏は、「子どもの姿に学ぶ教師「学ぶ意欲」と「教育的瞬間」」で次のように述べています。
「教師の役割は、子どもが学んでいく過程で、一人ひとりのこだわりを見取ってそれを大切にし、子どもたちが効力感、受容感、必要感、有能感のすべてを実感できるような学習環境を積極的にデザインしていくことにあると考えられる。・・・(中略)それぞれの視点から、その子が「学び」と「自分」との接点を築いていけるように配慮していくことが求められるだろう。」
「教える人がいない。させる人だけ。だから学ぶ喜びを知ることができないんじゃないかしらね。われわれは「させる」文脈で教育を考えすぎている。学習意欲についても「させる」ことを通して効率的にそれを高めようとしている。そもそもこの発想自体に限界があるのではないだろうか。」
「子どもの発言やつぶやきから何を感じ取ることができるだろうか。その言葉上の意味だけではない。その言い方や表情をも含めた子どもの全体的な姿から何を読み取ることができるのだろうか。さらに、その発言の背景としての授業の場や文脈、そして教師の思いや願いと照らし合わせる側の知性と感性をフル動員した「見える力」に全て依存している。「見えること」は「知ること」、「感じること」でもあるのだ。」

すべては子どもの見取りから始まるのだと思います。いかに、子ども一人ひとりの学びを見取ることができるか、この見取りの質を高めていくことが、子どもの「今ここ」を出発点とした授業の実現には不可欠なのだと考えています。

参考引用文献
子どもの主体的な追究と学びを実現する授業の要件(1)2016 平野朝久 東京学芸大学紀要
子どもの事実と向き合う 2022 齊藤慎一 東洋館出版社
子どもの姿に学ぶ教師「学ぶ意欲」と「教育的瞬間」2007 鹿毛 雅治 教育出版
note 子どもを大切にするということ 村山豪
note 子どもとの「ズレ」をおもしろがりたい 村山豪
note そもそもそろえようとすることに無理がある 村山豪
note 「~させる」から「子どもが~する」へ 村山豪
note 子どもをどう見るかが大切 村山豪
note 子どもの困り感を見取り。立ち止まって、寄り添う

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