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アデイonline再掲シリーズ第八弾 我に力を!(その2) ~『エクソシスト』("THE EXORCIST”、1973年、アメリカ)~

涼しくなってきてからの納涼大会企画、まだまだやるよ。本作、考えれば考えるほど、私の中にある権力志向や恨み、誰かをあざ笑ってやりたい気持ちと繋がっていたんだろうな、という気がする。

もう一つ、ずっと後に『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』(2014年)を観た。認知症の女性にどうやら悪魔が取り憑いたらしい、という介護地獄のリアルを描いたホラーね。

B級ホラーって、Bであるがゆえにバカバカしいんだけど、たまに「ぐさっ!」と心を突き刺す。この映画の認知症の女性、衰えて認知症っぽくなってしまった私の母そっくりの目をしていたのね。それが、その少し前に観た『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(2011年)とも繋がった。だから、「近親者の変貌」に対して感じる恐怖と哀しみと苦痛は、実は同じものなんじゃないかと。それによって『エクソシスト』という映画の意味も変わってきた。認知症になると、人は自分の一番弱いところを無残に曝け出すものなんだけど、人に本音を吐かせて喜ぶ悪魔という存在は、やっぱり私達のある側面だし、必要ですらあるのかもしれない。「あなたはそれを否定するけど、それはそこにあるでしょう?よく見てごらん」と教えている。そう考えたとたん、それまで悪魔や敵に観えていた存在が救済者に転じる(かもしれない)。表面的にキリスト教的な枠組みを使っているけれども、人間存在を善悪だけでは切ってない映画なんだよね。だから気持ち悪い。前取り上げたスティーブン・キングの『キャリー』も、同じ70年代の映画だけど、キリスト教にすがるマーガレットがキャリーにとって悪魔のように振舞うのも、アメリカにおけるキリスト教のありようの一つとして意味があると思う。

なんかこれだけで結構な文字数書いちゃったけど、以下、体力があったらどうぞ!2017年に書いたはずです!

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超能力少女に憧れた私が大人になってからハマったもの、それは悪魔に取り憑かれた少女でした。アメリカホラー映画の金字塔「エクソシスト」の少女リーガンが、白目剥いてみだらな言葉をだみ声で喚き散らし、良識ある大人を笑いのめす様に魅了されたのです。


私は小学校の頃には、大ッ嫌ぇなドッヂボールの時間に、ボールから逃げながら脳内は「私はグレムリンから逃れる美少女フィービー・ケイツ」と変換していて、ボールに当たった時の無様なこけ方とか記憶から消したい位(その分焼き付くの…ジジジ…)、既に自意識が救いようのない状況でした。でも、悪魔に取り憑かれた少女、というモチーフは思いつきもしなかったわ。そもそも実家は堅物インテリブルジョワで、ホラー映画やお笑い、エログロなんて絶対ダメ!でしたから、子供時代には、「エクソシスト」も「保毛尾田保毛男」も見ていませんでした


21世紀に入り、ゲイとして覚醒した私の前に、「悪魔に憑かれた少女」が出現しました。ゲイって、ちょっと極端な女性表現を好むという傾向(ドラァグ的なもの)があるので、私もてっきりそれの亜種で好きなんだろうなと思っていたのですが、全然違った。私は、彼女の力を欲し、その力の前にひれ伏したのゴゴゴゴゴ


本作、女優の娘、リーガンが悪魔に取り憑かれちゃったので悪魔祓いするっていうそれだけっちゃあそれだけの唐突かつ脈絡のないお話よ。超好きなシーンを言うと「客人の前で「あなた、宇宙で死ぬわ」からのお漏らし」「首だけ真後ろを振り返って「この娘がわしに何をしたか知っとるかね~」のじじいの声真似」「だみ声・ファックミー」「舐めろぉ」「あれは私の娘ではありません」「わっはっはっはは」「何がおかしい!」「ごああああああ」「ごろごろごろごろ!」「あの子は何も覚えていません」「私は映画を観た後色々話をするのが好きでしてね」ああごめん今映画一回上映終わっちゃった。私、一時期携帯のメールを打とうとして「ふ」と打つと、「ふぁっくみー」と候補が出て来てた時期がある位ハマってました。当時は「ファックユー、ではなくファックミーなところが竹美さんらしいです」と絶賛されたものよ。


もっと称賛を!!視聴率を!!!我に力を!!!!

本作、ホラー映画としての質の高さもさることながら、色々な要素が絡んでいる気がして何回観ても考えてしまうおいしい映画。例えば、そもそもこの話、超自然系のホラーとして描かなくてもよかったのではないか、とか。
キリスト教の世界で邪悪で怖いのは悪魔、という定説からすると本作、オーソドックスなキリスト教的ホラー映画。でも、違う見方をすると、当時最先端の特殊メイク技術を駆使した「作りモノ」という形になったことで、映画のテーマの焦点が微妙にズレてしまったのではないかと思いついたの。


本作って、下世話な視点から見ると、「ちょっと奥さん、聴いた?マクニールさんちの娘さん、最近様子変だったじゃない?そうそう、マクニールさんのお友達に…しちゃって窓から突き落としたんですって!まーどうなってるのかしら、世も末だわー、しかもこないだの夜!大騒ぎになったじゃない?!驚いたわ私~神父さんが一人…そうそう窓からねえ…あんなかわいい娘さんがね~あんなことになっちゃうなんて」と近所のババァ大興奮で噂されてそう。他人から見ればそんなもんなのよ、人の異変というのは。「あの人があんなんなるなんて」という状況って、近くの人にとっては恐怖と苦痛と悲しみなのよね。この映画は悪魔VS神の代理戦争の形を借りて、そこのとこの怖さ・不快さが出てしまっている。慌てる皆を前に不敵に笑ったりするの、「あんなんなっちゃった」当の本人は。怖いよ。


「あの人があんなんなっちゃうなんて」を感動的に描こうとするとサッチャー元首相の映画になるんだけど、本作の監督、かなりイッちゃった人らしいから、残酷なまでに何かを追求してったら、映画もあんなんなっちゃった。最近のホラーでも「テイキング・オブ・デボラ・ローガン」という、認知症になった老女にどうやら悪魔が憑いている、という、介護する家族からしたら地獄映画もありますね。ただね、そういう設定にあって初めて醸し出せる「苦しさ」というのがあると思う。介護は美談なら観ててつらくないが(園子温「希望の国」とか)、それは「ウソだ」とつい思ってしまうの。ホラーならば、怖さと不快さがごっちゃになるので見れてしまう。


ところで70年代のアメリカ映画では、「子供」が特権的な立場に立つ映画が多く出てきたと言われます。そう言われてみると、リーガンの暴走に手を焼いて、母も「あれは私の娘ではありません」ってね、女優カモフラージュの定番、スカーフほっかむり&サングラスして、橋の上で神父に悪魔祓い頼むわな。大人がびびってるの。で、あんだけのことしといて、本人は全て忘れてケロっとしているのね。何回目かの鑑賞を終えたある時、「もしかして、この娘、実は全部分かってたんじゃねえか」という疑念を持ってしまって、私はぞっとした。そこが怖い。ちなみに最近は「この娘、実は意味分かっててやってたんだね」映画の名作「エスター」というのもある。悪辣娘のびっくり正体なインモラルホラー映画。でも最後、ちょっと笑っちゃう。もう「昨日からうちに泊まってる人がヤバい」という時代になっちゃったから、笑わないと耐えられないのかもしれない。


リーガンは闇のパワーを得て「お行儀のよさ」を滅茶苦茶に踏みにじる。「本当の事」というのは、見ててつらいことも多いので、観ないようにとタブーにされることもある。悪魔は、そういうタブーをぶち壊してもう一度「むき出しのあんた」を直視させてくれる劇薬なのかもしれない。でもリーガンは大人達をあざ笑う。「むき出しのあんた」を直視した後どうなるのか、誰にも分からないから…びゅおおおお

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