見出し画像

竹美映画評㉚ 身分格差を笑いで乗り越える戦後日本の活気『お嬢さん乾杯!』(1949年、日本)

木下恵介映画の素晴らしさを私一人が独り占めしているような気がして仕方ないので、今日は木下恵介監督があの原節子さんの美しさを徹底的に笑いのダシに使い、「身分や階級なんてもういいだろ?これからは平等と自由な時代が来るんだよ」と高らかに歌い上げるコメディ映画『お嬢さん乾杯!』を取り上げる。

自動車整備工場を興した石津(佐野周二)は、知り合い佐藤(坂本武)の勧めで、8歳年下の女、石田泰子(原節子)とお見合いすることになる。気が進まなかった石津だが、美しく品の良い泰子を見てすっかり気に入り、結婚を前提に交際を始める。ところで泰子の家は大陸帰りの元華族だが、泰子の父が騙されて事業に失敗、詐欺事件の犯人として服役中、更に没落して邸宅も抵当に入れている始末。金のために泰子を嫁にやろうとしているのだった。それを知った石津は面白くない気持ちに…。

原節子と言えば、小津安二郎映画で戦後日本を代表する美人女優、永遠の処女と呼ばれた伝説の女よ。本作は彼女が「小津の原節子」になる前に撮られた作品だが、さすがは木下監督、この人キレイだから許されるけど結構えげつないこと言うし変な表情するよね…という形で、完璧すぎる美人を笑いのダシに使っている

「金のために結婚する」「元々好きだった人がいたが結婚する前に死んでしまった」「今は心の火が燃え尽きた状態」…既に泰子を好きになってきている純な石津(でも34歳よ。怪しい)を前に、そんな本当の事情を淡々と赤裸々に告白する泰子の残酷さったら無いんだけど、演じる原節子の現実離れしたキレイさのおかげでまあまあ聞けちゃう…結局人は見た目で色んなこと許しちゃうんだと分かるシーン。「心から愛してくれない人と一緒にはなれない」と言う石津に、「あなたのことはよい方だと思いますわ」「結婚すれば、気持ちがうまれるものではないですか」という泰子の言葉は、現代の感覚で聞いても身勝手で無責任に聞こえる理屈(一抹の真理がありそうなのが猶更腹立つわけ)。でも、「恋愛結婚をするはずだった」という、戦前の上流層が本当にそんなこと可能だったのだとしたら面白い。

昔の栄華が忘れられない池田家の祖父母の愚痴、それを諫める現実的な母(東山千栄子)、収監されても娘の幸せを願う優しい父、新しい世代の姉と奇矯な義兄と子供達を前に、石津は自信を無くしていく。泰子の誕生日祝いの場面でコロコロと気持ちが変わっていくのが分かる。昔はピアノを弾いていたが借金のかたに取られた過去を知った石津は、よかれと思ってプレゼントにピアノを送る。しかし祖母は「施しをされたみたいで」とご機嫌ナナメで裏で愚痴。泰子は(これが原節子の持ち味なのだが)気まずさを察してピアノでショパンを演奏する。クラシック=ベートーベン位しか知らない田舎出身の石津は、お返しに地元高知の謡を披露するが、自分の田舎臭さが恥ずかしくてならない。

ここで、音楽を使って、庶民日本と上流日本が対比されている。後で泰子は、石津の歌った謡のメロディをピアノでちらっと弾いて見せるが、それは石津にとっては何だかバカにされているような気になる。おそらく、クラシック音楽と、庶民の謡は、消費のされ方や意味付けからしてまるっきり異質なのだろう。昭和50年代位までの日本映画では、宴会で謎の小唄を皆が歌うシーンが必ずあるのだが、あれはカラオケに代替されたんだろうかね。もう誰もあの歌を歌えないし、一体皆どこで覚えて来たのかがちっとも映画に出てこない位、「こーりゃこーりゃ」と酔って歌うことが身体化されていたのではないかと思う。

ショパンなんて聞いたことも無かった石津だが、お金だけはある新進起業家なので、直ぐレコードを買って、行きつけの高級バー(女給のレベルも高く、洋食をきちんと出したりできるみたい)で流してみる。しかし、やはりお嬢さんと叩き上げの自分の落差を思い、意気消沈してしまう。「この世の中はお金ですよ!僕はじゃんじゃんお金稼ぎますよ!」と自信満々に語ってみせたって、やっぱり身分制度がはっきりと存在していた戦前のことがあるしねえ…。

ちなみに『男はつらいよ』第一作(1969年)の時点の「格差婚」を観ると、階級は不明瞭だが「大卒でいい所にお勤め」の男を前に、庶民出身のさくらが居心地悪そうにしながらお見合いをしている。彼女はまさに泰子のように、格差のある結婚によって経済的な安定を手にしそうになっている。

泰子ったら「結婚はしなきゃいけないからする」が、気持ちがついて行かず、憂鬱そうなのよ。あんた合意の上のデートでその態度は無いだろ!でもやっぱりキレイだから見れちゃう…友達に会いに行き座り込んで「…お腹すいた」とこぼす。ここ超笑った。おなかすいた、だけで笑わせてくれるなんて原節子・イヨンエ級の女優だけよ。笑わせと言えば、あの原節子をずっこけさせるという大技も披露しております。キノピーの快挙…。

ところが(これはクイアネスの場面としても読めるのだろうが)石津は、決して感受性の無いガサツな男ではない。泰子とのデートでバレエの公演を見に行くのだが、ショパンの曲に合わせて踊るダンサー達を観て、自分でも分からないうちに涙する。それを確認する泰子。デートで確認してから結婚するか決めなきゃいけないんだから!!その後はボクシングを見に行って、逆に、泰子が血が熱くなってくるのを石津が観ている。泰子は性根が知れて恥ずかしくなったのか、すぐに帰ろうと言い出す。性根を隠す女をよくやる節子だが、キノピーの前ではそうはいかないんだ…

でも杉村春子ならそうはいかない。彼女はまずは金勘定から始める現実的な渡る世間は鬼ばかり女なので、石津も案外すんなり結婚に至ったのではあるまいか。

さて本作のもう一つの隠れた宝、それは佐田啓二と佐野周二の濃厚接触。佐田啓二は本作と、2年後の木下映画『カルメン、故郷に帰る』で男性との濃厚ダンスシーンを披露している。本作では、五郎という役名だが、戦後の焼け跡で(たった4年前…!!)石津が拾ったらしい。そして同居させ仕事もさせているという弟分なのだ。「兄貴ぃ」と呼び慕うし、失恋すれば兄貴にすがりついてダンスする。しかも目を閉じてるんだよね。おいしくて驚いた。

とりとめなく本作について考えてみたが、身分の違いというものを「お笑い」にできるほどに、昭和の日本映画は、戦後の喜びをもろ手を挙げて歓迎していた。実際には貧しく不潔で悲惨が横行していた日本(木下は『日本の悲劇』(1953年)でそちら側の日本も描いている)の別の場所では、明るい戦後の光が差していた。これは今の我々には感知しにくい波長の光線だ。戦争と空襲という真っ暗闇があり、そこにいち早く七色の光を投げかけた木下映画は、今の我々にはほとんど見えていない波長の光なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?