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厨二病こじらせるしかなかったメキシコ男の本気 「ローライフ」(”LOW LIFE“、2017年、アメリカ)

アメリカの映画の中で最近「メキシコ」はどのように扱われているか、という観点と、この映画をお勧めくださった方から、この作品は竹美ベスト映画の「皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ」と似てると聞いて、こりゃあ見なきゃ、と思って観ました。しかもな!ブルーレイまで貸してくださったのよ!!この貧困映画ファンに!!!!神よ!!!!!!

ロサンゼルスの片隅で、臓器売買だの少女買春だのに手を染めるタコス屋のおやじ、テディ、不正を働いた彼の会計士キースとその親友で出所したばかりで顔に鉤十字のタトゥをしたランディ、伝説のメキシコプロレスレスラーの息子モンストロ、そのヤク中で妊娠中の妻ケイリー、彼女を捨てた母親のクリスタルたちが暴れまくる犯罪映画よ!

この種のバイオレンス映画、私は進んで観ることは無いんだけど、見てよかった。最初は音楽といい描写といいホラー映画かと思ったし、最後の方までホラーだったのかもね。ホラーなら別の逃げ道=超自然的或いは狂気があるところ、これは現実にもあり得るのだと分かりはじめるとげんなりしてしまうが、それもこの種の映画が伝えるべき世界の姿なのだと思う。最後、突然尊さが降りてきて最後は驚きの爽やかな結末。スーパーパワーの出てこないダサヒーロー映画の誕生に救われる。

モンストロの生き方にはどこにも自分の意思が無いように見える。「全ては伝説のために」が彼の口癖だが、その実自分らしい選択を一切しない。それ以外何も無い空っぽな人間なのだ。彼自身は偉大な父親の陰から逃げることもできない。でも作品中のどこにも彼の父親が伝説のレスラーであるという証拠はなく彼の証言だけなので、その出自さえもメキシコで浮浪児として育ってしまった彼がでっち上げた空想なのかもしれない。そんな空想の中でのみ人生を感じるモンストロは、生まれようとする自分の子にも自分と同じことをさせることを望んでいる。しかし、それも彼の本音なのかは分からない。目の前で少女が売春させられそうになっていて、メキシコのヒーローであるモンストロに助けを求めても何もしない。そして、あろうことかモンストロはヒーローである、と呟いてしまう。何という現実否定!

でも、何となく…私の呼んだ数少ないメキシコの小説に出てきた男たちの表象を思い出すと、心をあけっぴろげにできないまんま、野蛮な状況の中に自分を投げ出して自殺行為のように殺戮や破壊に興じる姿は少し重なるような気はした。そこにも自分の意思が無いのよ。自己放棄と言うのかな、運命に全てを投げ出したようなメキシコ男の乾いた空虚がある気がする。

その意味ではモンストロはとてもメキシコ的なのかな、と思ったわね。

クリスタルが段々「ターミネーター」のサラコナー化するところもおいしいし、人がよすぎるランディにホッとさせられる。

白人であるランディの顔に鉤十字のタトゥーが入ってるのは、日本人である我らにはピンと来ないが、アメリカではかなり抵抗感があるらしい。それはお話の中での問題ではなく、実際に演じてくれる人がなかなかいなかったとか。韓国で…旭日旗と刀刺して軍服着るよりはるかに破壊力があるようね。そんなランディがまさかの運命を受け入れるシーンで一気に尊さが増したわ〜普通の人がヒーローにうっかりなってしまう系の映画の喜びはそこにあるわよ〜自分の中にももしかして一ミリ位、自分を捨てて何者かになりたいという気持ちがあるのかもしれないし、映画がそういう気にさせてくれるだけなのかもしれない。

尊いポイントはもう一つあって、モンストロが遂に自分の意思で何かを選んだことね。結局彼の出自も何もかもがわからず、厨二病こじらせたまんま大人になってしまって、よりによって底辺のヤクザ者のパシリとして利用されてしまった男の哀しみよ。男子が理想だけで生きてしまうと、間違えるととんでもないものに利用されてしまう…その完成形の一つが、私が何度も書いてるように、イスラム国なのよね。だから彼らのやることが何故か北斗の拳の悪役じみてるのは…人間の想像力の範囲内の現象なのではないかとどうしても感じてしまうのよ。そして、残虐行為がしばしば聞かれる世界のギャングの姿でもある。それをモンストロは体現していると思う。

ヒーローがヒーローであることを辞めるとき、何が変わるのか。モンストロは厨二病のクズ男なことばかりしているが、では彼が守ろうとした伝説には価値は無いのか?命に代えてでも守ろうとしたものが周りの者にもらした贈り物。ヒーローが腐敗することなく受け継がれたらいいな!そんなラストにボー然。

「皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ」がいかにバイオレンスを薄め、見やすく作られていたが、それによって物語に入りやすくなっていたか。映画を勉強する上でも面白い作品だった。

そして、最初の興味、「メキシコ」をどう描いているか、という意味で言うと、確かに底辺の方にはメキシコ系がいて、その間で搾取が行われており、そのことを白人の世界は全く知らないという意味、メキシコのヒーローをメキシコに返すものとして扱ったいるところに…うーん、すごく意味があるかと言うとそうでも無いかな。その政治性の無さがよかったかもね。

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