竹美書評③  カールハート『ドラッグと分断社会アメリカ 神経科学者が語る「依存」の構造』を読んで

ドラッグと社会の問題については、二年近く前になる、元彼のコカイン所持逮捕という事件を経て、幸か不幸か、かなり近い問題として考えるきっかけを得てしまった。映画と薬物のことについても書きたくなり、一応注意しながら見ている。そういう意味で、この本は、もっと早くに読みたかったような気もしたが、今でちょうどよかった、という感じもした。

神経科学者で違法薬物の使用と依存について研究してきた筆者は、フロリダの貧しい地区出身の黒人として生まれ育ち、努力により(本書では、彼の努力を引き出し、「強化」したたものは何だったのか?と著者が振り返りながら人生が語られる)コロンビア大学教授にまでなった人物である。

この本は、薬物問題以上に、アメリカ内の人種差別や貧困の問題の内容が濃く、食い入るように読んでしまった。ドラッグの観点からのみ簡単にまとめると、ドラッグ使用と依存は異なると理解する必要性が強調されており、ドラッグを使用しても依存症になる人は実は少ない、クラックコカインと普通のコカインはほぼ同じ効果を持つのに、メディア、政府、学者によって前者の危険性が不当に誇張された上、クラックコカインが黒人の犯罪イメージと不当に結びつけて語られたことにより、黒人はクラックコカインの問題のスケープゴートにされた…などの主張がある。また、違法薬物の危険性を喧伝する余り、使用者を社会復帰できないような状況に追い込んでしまうようでは、依存症の患者を減らすことはできないし、薬物政策として全くナンセンスだ、と言っている。

映画批評の観点からは、「ムーンライト」「ゲットアウト」「アス」等を観る前に読みたかったね。まさにあの映画で描かれたような人生がそこら中に溢れているから。互いの尾を噛む蛇のように繋がっている人種差別と貧困の問題、そしてそれに絡む「男らしさ」の承認競争、貧困から来る毒親問題、違法薬物の売買と消費の描写、その中において、小さな男の子のまんま大人になってしまった同性愛者(?)の男というミスマッチが美しかった。でも、現実は美しくない。主人公シャロンのように刑務所にぶち込まれ、彼の母親のようにリハビリ施設に入り、たった一回の不当な逮捕で一生荒んだ人生を送る筆者の親戚の話。筆者は、それが現実であることを痛いほどに知っており、そのようなコミュニティに救いをもたらしたいと言う。しかし、ハリウッドに関してうがった見方をするならば、あの映画がオスカーを貰ったということは…本書が批判していたような、ドラッグ犯罪と貧しい黒人コミュニティという偏ったイメージをハリウッドが書き換えなかったということかもしれない。作品としての良さとは別にそういうことを考えてしまうのは残念な気もする。

筆者は薬物使用を薦める気は全く無いと思うが、彼の主張が違法薬物合法化(彼のケースではマリファナ)の根拠として利用される可能性は高いと思う。実際最後の方にはそのようなことが起きたと書かれている。

違法薬物は、喧伝されてきたほどそれ自体が危ない訳ではないが、当然危険もあると繰り返し書いている。そして、二千万人の人がなんらかの薬物を常用しているアメリカの現実を前に、安全に使用する方法を広め、依存に至らないようにする政策を取るべきではないかと言う。それが、具体的には薬物の非犯罪化である。政府が薬物との戦争を宣戦布告して、沢山の逮捕者を出してみたところで、黒人の逮捕が不当に多い上に、結局は薬物使用を減らすには至らなかった。レーガン政権や父ブッシュ政権のやり方では全く効果が無かったという結論である。

私は、アメリカの薬物依存…読むまでは依存症と使用の違いを明確に理解していなかったが…について知ろうとして読んだが、若干後味の悪い気持ちになった。

私の元彼は、同棲中に知らぬ間にコカインやって目の前で逮捕、4ヶ月収監の後強制送還された。あの日からずっと残っている疑問、どうしてよりによって日本に住んでるときに、二年ぶりに古巣であるコカインに戻ってしまったのか?という問いに答えが欲しいのだと思う。今回、依存と使用は別物、他の薬物などと乱用すると健康を害するが、軽く使う程度なら健康に害は少ない、という知見を得た。まあ要するに、彼には気晴らしが必要で…私と日本に住んでるのが辛くなって、先が見えなくて怖かったんだろうなと思う。あの年半年間は故国に帰ってたもんね。私を置いて。そして悩みは私に話すまでもなかったのだろう。最終的に私は薬物程には必要とされなかったという事実を再確認した。後述するけど、後味悪いのはそれだけのせいではないんだよ。

本書は、本当に薬物使用をコントロールするには、違法薬物の非犯罪化が有効なのではないか、と提案している。これは、既に薬物が出回っていて、止めようがないと多くの国民が判断している国でならば説得力があるのだと思う。アメリカの中ですら彼の議論は、私が感覚的に感じている不信と反発と同じ脈絡で曲解されているが、アメリカ映画の中での違法薬物の描写を考えるときに、この視点は重要かもしれない。使用と依存は異なる状態であると見なせば、ハリウッド映画における楽しいコカイン描写の意味は、本当に楽しく使用しているだけなのだろう。

本書の趣旨ではないが、筆者が若い頃に直面したような荒んだ社会状況は、メキシコのギャングのニュースを見る限りはメキシコのみならず中米の一部地域でも発生している。しかも筆者言うところの、人生の可能性を閉ざされるほど罰せられるべきではないというレベルのコカイン消費と売買のせいで、最初はコロンビア、次はメキシコにおいてギャングの台頭と暴力が延命され、更に悲劇を生んでいるというのはあまりに皮肉。そして最近のハリウッド映画を見るにつけ、「悪いメキシコ人」にあらゆる罪をなすりつけたいんだな、としか思えなくなってくる。

この本が書かれる頃から、アメリカでは、幻覚系のドラッグは、仕事の効率を高めるであるとか、鬱病などの精神疾患の治療に良いという言説が出てきている。最近の映画で言えば「イット」第2章では、原作では単なる木の枝が使われるはずが、幻覚キノコが使われていた。ドラマ「What/If」では、トラウマを抱えたゲイの男性に、ヒッピー第2世代のようなゲイの男が幻覚キノコを与えて心を解放させ、癒すシーンが出てきた。このような形で幻覚系のドラッグが社会に入り込んでいくのだろう。

私はもはや、違法薬物については特定の意見が無くなってしまった。本書では、「どうせやめられないんだし、安全に使えば問題ない」と教えている。一方で世間では、大麻ですら、無害と有害の両方の意見が出てくる有様だ。この筆者の研究は、違法薬物使用についての一般的な偏見を打破する意味で画期的だとも言えるが、その前に本当に救われるべきなのは、アメリカにおいては、人種差別の問題の方だと思う。人種偏見に基づく違法薬物の取り締まりを繰り返してきたアメリカでは、違法薬物の取り締まり自体がメインストリームアメリカにとっての免罪符として機能しているのだろう。禁欲的であるべきピューリタン国家としては、アルコールやセックスのみならず、ありとあらゆる違法薬物が蔓延している状況をまずは糾弾しなければ気が済まないのだろう。映画「ザ・ギフト」で、エリート街道生きてる男が、処方薬を濫用していた妻を咎めるシーンがあるが、まさにそれ。白人で、容姿も良くて、元体育会系で、今は仕事もできて…だからそんな弱い妻が許せない。映画では「そんな彼の方が病んでないか?」と問うている。アメリカって…問題があることについては、最初は異端を排除しておいて、突然涙を流して許しを請うたりするでしょう。どこまでもピューリタン精神なのだろうか。本書を読むと、薬物がそこら中にあるアメリカにおいてさえ、違法薬物の使用と依存の違いが感覚的にわからない、私みたいな人がたくさんいるのだという点も、強調しておくべきと思う。

でも、日本に住む自分を振り返ってみて…お酒への渇望が「パートナーと落ち着くこと」と交換可能であるとしたら、私には違法薬物の使用を咎める資格は無い。日本では、違法薬物に対しては厳しいが、アルコールと男性の性行動には甘い。私もそうだ。今の彼氏に会う前、1年前の私が、毎晩相当なお酒を飲み、毎週男を漁っていた状態が、「依存」ではないのだと言ってみたところで、「使用」していたのだから。

今、私はそのことを考えるのがとても怖い。違法薬物について少し違う観点を得たことで、「薬物と映画」というテーマをより多角的に見られる気がすると共に、「正しくない自分」に蓋をしているだけだと分かってしまったのは、全く面白くない気分ではあった。

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