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竹美映画評16 男の競争「アメリカンサイコ」("American psycho”、2000年、アメリカ)

友達に前々から、一緒に見たら楽しいよ、と言われていた映画(どんな友達)、「アメリカンサイコ」を観た。八十年代のニューヨークに生きる若きエリートビジネスマンのパトリックが、殺人衝動に駆られて人を次々に殺していくお話。

「羊たちの沈黙」がサイコホラーというジャンルの確立を宣言して約十年後、「レクイエムフォードリーム」やハリウッドのホラールネサンス初期作品「シックスセンス」などと同時期に製作された本作は、猟奇描写を抑えた演出で、その分主演のクリスチャンベールの演技が冴えている。そして、それからまた二十年近く後の今見ると…公共空間で無闇に威張っている男性達を見つめる目線で見てしまった。

本作の監督は、カナダ出身女性のメアリーハロンさん。収入と意識が高い都会の男達、特に当時話題にのぼっていたと記憶しているメトロセクシャルと呼ばれる、自分磨きを欠かさない男達が、ゲイみたいな見た目なのに全く中身はそうではなく、男同士の底辺への競争に突っ走っている様をユーモラスかつシニカルに観せる。その競争に参加しない女の立場だからこそ冷ややかに見つめることもできるのではあるまいか。エリートビジネスマン達の名刺の自慢しあいが秀逸。全てが競争であり、勝ち負けに一喜一憂たが、同じ競技に参加しなければ完全に排除されるので抜け出せない。ファッションが似たり寄ったりの白人男だらけなのを漫画的に映す。極めて小さい差異を巡る競争は、客観的には馬鹿げているが本人達は本気なのが滑稽かつ怖い。

クィア映画としても面白い。今で言う人権派リベラル派の言いそうな意見をディナーの席で披瀝するパトリック。明らかに本人は信じてないのにね、その意見に唯一心酔する人物に注目よ。何故他の男を褒めるのか?なるほどな、と分かる。そして、ノンケ男による、女性同士が絡むポルノの鑑賞シーンや女性二人とパトリックの激しいセックスシーンが出てくる。きわめつけは、セックスしながら、彼は鏡で自分を見ながら、腕の筋肉を浮き立たせたりしているところ。私はびっくりした。それって…ゲイポルノの中で、マッチョ男性であることを強調するゲイの振る舞いとすごく似てるの。でもゲイポルノの場合は、互いの性的な興奮度を高めるのが主な目的だから、極端に言えば虚構でもよい(中身がオネエでもいいんだよ!)。でも何であれが性的な興奮を高めることになっているのかは、私もよく分からないし、本作見ると、ノンケ男の性欲もよく分かんなくなるの。

どうやら、本作のエリートビジネスマン達にとって愛とか感情に意味がない。愛してもない相手と結婚した女が見せる一抹の寂しさにも、パトリックはじめ男達は関心が無い。モノローグで、パトリックは、自分には実態というものがなく、単なる欲望だけがある、と語り、この先自分を知るような機会もなく生きるのだ、と悟る。

そういう彼らを「現代の有閑貴族」と見なしている間はコメディだが…日常で見かけるそこらの男達もまた、男特有の競争に駆り立てられている。絶対に謝らないサラリーマン、電車で女子供にオラつくおじさん、激安スーパーやコンビニで店員に喚くおじさん、白人以外の外国人にガンつける男…日本で私がよく観るのはそういう男たちの競争だが、その時彼らは、自意識の薄い、欲望の器なのだ。それってパトリック達とあんまり変わらないような。男らしさ競争で勝っていない男に、「あんたの実態はこの程度だよ!」と真実を教えてあげると、自我が崩壊して猛反発してくる。そして、自我が崩壊した後の器が、銃乱射や無闇な爆破テロをしているのではないかとどうしても考えてしまう。

でも、そのように、男達が互いに競い合っている方が社会体制は安泰だ。社会の色々なモノ…家族、会社、地元、ご近所、国家主義…などに憑依されて生きてる方が色々と楽なのだ。だがそれらのモノは、あなたが少しでもそれらから外れた時に、本当の顔を見せる。社会は少しずつ変わる。でも先に行きすぎるとあなたを抹殺するかもしれない。

私達は社会から外れて生きることもできないけれど…果たしてこんなに色々考えることが意味があるのかな…と悩むわねびゅおおお

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